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「今村大将の大東亜戦敗戦の反省」についての補足の補足/陸海軍の対立に至った経緯:『帝国海軍が日本を破滅させた』佐藤晃(光文社)

敗戦の大原因「陸海軍の対立」に至った経緯について記します。

今村さんが、大東亜戦の5大原因の一つに挙げ、制度の罪であると言った「陸海軍の対立」について、さらに補足を加えさせていただきます。

大原因の一つである「陸海軍の対立」の本質的問題は、戦争指導が統一されていなかったということです。いわば陸軍、海軍がそれぞれ勝手に作戦を実施していたといっても良い状態だったわけです。

その大東亜戦での実態や問題については前回あらましを下記に記しました。

今回、さらに補足したいと考えるのは、どういう経緯で何に依ってそうなってしまったのか、ということです。
この経緯も本質的に海軍に責任があることなのです。
なお、この記述については、前回と同じく佐藤晃さんが公にされた「帝国海軍が日本を破滅させた」上・下(光文社)をもとに記述します。

明治維新から日清戦争まで:戦争指導は統一されていた

明治維新からしばらくの間は対外戦争というより内治に重きがあったことや、そもそも薩長藩閥政府の内部抗争はあったものの政府側としては意思統一がされていたため、陸軍を中心とした軍事指導が行われていました。
陸軍参謀本部が軍事指導を統一して行っていたわけです。

ただ、時を経るに従って、海軍の体制が構築されていきます。陸軍と並列する海軍となってきますと、陸軍の参謀本部が主となり戦争指導するという決めごとに対する海軍の抵抗が始まってきます。

そして、ついに海軍にも軍令部ができ、陸軍の参謀本部と並列とされるに至るのです。明治26(1893)年のことです。
このわがままを通したのは、あの山本権兵衛です。
ただし、この日清戦争までの時点では、この並列の決定と同時に「戦時大本営条例」が制定され、戦時には全軍の指導は陸軍参謀本部が行うこととされましたので、日清戦争では戦争指導の統一は保たれていました。

日露戦争前の段階の日本の分裂

なぜ、この全軍の指導は陸軍参謀本部が行うという「戦時大本営条例」が陸海並列に改訂されたのか、です。

佐藤晃さんの「帝国海軍が日本を破滅させた」(光文社)によると、

まず、山本権兵衛を首班とする海軍は権威を徹底的に固守しようとしたということで、日露戦争の戦争戦略についても平時の陸海並列を盾にとって陸軍への協力を拒否し、参謀本部が日清戦争時から日露戦争の作戦を構築していたという満洲決戦構想に耳も貸さなかったという状況があったようです。
そして、海軍の作戦は朝鮮半島の放棄もいとわず、日本近海でロシア海軍を殲滅するという単純なものだったようです。これは、日露戦中に、旅順艦隊ではない、ウラジオ所属のわずか三隻のロシア艦隊によりさんざんに日本近海を脅かされたことを見れば明らかな検討不足の作戦といえるのだろうと思います。

以上のような状況下に、陸軍参謀本部の川上操六は日清戦争後まもなく死去し、跡を継いだ田村怡与造も日露戦争直前の明治36(1903)年に突如死去してしまい、日露戦争の直前、日本は戦争指導の分裂をきたしそうになる危機のときを向かえます。
1)参謀本部の満洲決戦構想
2)山本権兵衛海軍の大陸、朝鮮半島放棄案
これに、伊藤博文の唱える、
3)対露協商諭

このことについて言っておくと、これまで歴史に詳しい人でも、3)の対露協商諭と、対英同盟諭による国内分裂は知っていても、陸海軍の対立が1)と2)の対立のあったことはほとんど知りません。

さらについでに言いますと、このような陸海の対立があったため、旅順が軽視され、陸海の縄張り争いの末、旅順を海軍主管で日露戦を始めなければならなかったのです。そして海軍の無策により、結果的に陸軍に責任転嫁され、無策のまま旅順攻略にあたらなければならず、それが攻略にあれだけの犠牲を必要とした本質的原因であったのです。
改めて言いますが、旅順の苦戦は、乃木大将の無能などでは決してなく、作戦の不統一の隙間にあったためであり責任は大本営に有ったのでした。そしてもっと言えば海軍のわがままに起因していたと言えるのです。
旅順攻略戦の戦闘の具体的経緯については、以前に下記記事を記しましたので興味のある方は参照ください。

児玉源太郎が海軍に譲歩して国策をまとめた、しかし「戦時大本営条例」は廃止され陸海並列が静かに決まった

日露戦争に踏み切る体制はどう構築されたのか。
そのことと戦争指導の統一ができなくなった「戦時大本営条例」の廃止は実は不可分のことでした。

対露協商は、日英同盟によってなくなり、いよいよ日露戦争へ向かうしかない状況となったが、陸海軍の統一が海軍により進まなかったという状況でした。

そこで、田村怡与造参謀本部次長のあとを、二階級降格も同然の人事で継いだ児玉源太郎が、海軍に大幅な譲歩を行い陸海統一をはかったのです。
予算面と、旅順について海軍主管とし、決め手は「戦時大本営条例」を廃止することで、海軍は、対露共同作戦協議のテーブルにつき、陸軍の満洲決戦のための海上輸送を担うことに同意したのです。

このように日露戦争において、会戦当初から陸海並列の闘いを強いられたのが日本軍であったのです。
大戦略において、児玉源太郎の掌中にあった構想の範疇で海軍の協力を得たことで辛うじて勝利をものにすることができたのが日露戦争だったとも言えるのです。

陸海並列を成し遂げた山本権兵衛はこののちも権力中枢に残り続けた

日露戦争後、この重大な日本の安全保障における大欠陥は、大戦争であるまで30余年は露見せずに済みましたが、ついに大戦争となった大東亜戦で日本を亡国の淵まで追い込んだ大きな原因となったのでした。
後世に禍根を残した、山本権兵衛は大正期二度の首相を勤めました。このぐらいの人になればもちろん功罪あるのが当たり前ですが、この「戦時大本営条例」の廃止を行い陸海並立、軍事指導の不統一を齎したこの人の罪はやはり重いと思います。

以上、陸海軍の対立、すなわち戦時指導体制の不統一という重大問題について、その歴史的経緯を述べてきました。
先述しましたように、この記事は佐藤晃さんの「帝国海軍が日本を破滅させた」を参考にしています。
是非この本についても、ご一読いただきたいと思います。


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