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「『最後の参謀総長 梅津美治郎』祥伝社新書 岩井秀一郎著」/もっと語られるべき人梅津美治郎

梅津美治郎

最近、今村均大将本を刊行した岩井秀一郎の梅津美治郎伝を読みました。
少し前に、『今村均 敗戦日本の不敗の将軍』については書評に掲載しましたが、

今村さんと深いかかわりのある、梅津美治郎については、帝国陸軍の最後の参謀総長(統帥のトップ)であるにもかかわらずこれまで評伝が驚くほど少なく、私なども寡聞にして成書を読んだことが有りませんでした。

梅津さんは、今村さんの5年年上(明治15年生まれ)、陸士では4期上(陸士15期)にあたり、今村さんが陸大入学の年に陸大入試の指導を梅津から受けたのを始まりに、満州事変の時は、梅津参謀本部総務部長、今村参謀本部作戦課長として事変の処理に協力して取り組んでいます。

後始末の男

昭和陸軍の不始末の後始末を三度にわたり引き受けたのが、梅津さんでした。
そのストーリを軸にこの「最後の参謀総長 梅津美治郎」は書かれています。

一つは、昭和11(1936)年2月26日に起きたいわゆる226事件。事件後、陸軍省次官、即ち陸軍大臣に次ぐ陸軍軍政のナンバー2として、その粛軍の陣頭に立ち軍紀の刷新を行いました。
二つは、昭和14(1939)年夏に起きたノモンハン事変の後始末です。関東軍参謀の行き過ぎた越権行為により傷口を広げたノモンハン、その停戦協定が結ばれるとき、植田関東軍司令官に変わって梅津が軍司令官として、この場合も関東軍の軍紀の刷新保持に辣腕を振るうことになります。
梅津により、関東軍は大東亜戦中も軍紀を維持し、昭和十九(1944)年7月梅津の参謀総長就任までの間、役割をしっかりと実施し続けるわけです。
三つは、日本の存亡がかかる大東亜戦の終戦時です。昭和十九(1944)年7月から終戦処理までを含めて努めることになった陸軍統帥のトップである参謀総長です。これ以上難しいことのない日本史の重大局面で、重臣らとと主に日本のトップとして、ドイツのように政府が空中分解することなく日本が政府つまり国家を維持して終戦に漕ぎ着けたことに対する、その功績は小さいものではないと思います。

自分自身について語ることの無かった男

梅津が自分のことについて語ることが無かった男であるというのは、興味をそそることではあります。しかし同時に、日記やメモなども一切書かなかったということはその人間性を掴むヒントとなる素材が非常に少ないということでもあり、そのことが梅津が書かれてこなかった一つの原因だと言われているということです。これは確かに残念なことです。

ただ、こういう何も語らなかった男が、ある意味で実質を動かしその行動に責任を持った、ということが間違いなくあります。梅津さんは、恐らくそう生きたいと念じて自らの生をおくられたのではないか、と思わずにはいられません。こういう男たちが日本の歴史を築いてきたのではないでしょうか。

大東亜戦終戦に立ち至る歴史を振り返るとき、陸軍ではまず阿南大将陸軍大臣のことが浮かんでくるでしょう。それほど阿南さんの存在は昭和天皇のリーダーシップのもと終戦に漕ぎ着けた中で大きく、しかも自害を果たして陸軍をまとめた、という事実の中で劇的なうえにも劇的です。
しかし、その阿南さんが最も信頼し、敬愛していたのがともに終戦を実現した梅津さんだったのです。そして昭和天皇に信頼厚かったこともそれを裏打ちしています。
そうだとすれば、梅津さんの役割が奈辺にあったのか、もうそのことはいくら梅津さんが何も書き残さなかったとしても、自明ではないでしょうか?
今後、さらに梅津さんについての評伝が出て来るでしょう、そして価値の大きさは露わになってくるはずです。
この人の価値は十年単位くらいの短期では計り知れないのだと思います。

今回の評伝「最後の参謀総長 梅津美治郎」の意味は大きい

今回、岩井秀一郎氏が、このような形で評伝をものにしてくれたおかげで梅津美治郎の点と線が繋がって現代のわれわれにも身近な形で理解できるようになりました。このことの意味は大きいと思います。

昭和史は、その苦難の戦前を十分に知らないと昭和全体を理解することができません。
岩井秀一郎氏は他にも陸軍ものを執筆しており、その著作は今後の中でまた紹介していきたいと思っています。








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