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「三十五年越し エピローグ14」/還暦における青春再来と美智子さんを恋ふる心切なるの関係

還暦の時期は青春に似たものがある

還暦にもなり、なぜこんなにもかつて二十代に恋焦がれた美智子さんが恋しいのだろう。

もちろん、それほど彼女が豊かな内面的な魅力とそれが醸し出すものを含めた外見の美しさを持っていたからなのだろうとは思う。
しかし、還暦という人生における再出発の時代性というものが種々の作用をもって精神を刺激しているらしく思われるのである。

前記事で、恋と近代の関係について述べた。

「近代」は、今還暦の場合も恋と関係しているはず。

還暦六十で定年となり、子供たちも独り立ちし、仕事面でも家庭面でも第二の人生への再出発の時期であることは、改めて「近代」すなわち私という「個の確立」に対する答えを見出していくモチベーションを提起してくれていることがやはり関係している面があると言わざるを得ない。

そのことは、最近しきりに感じる寂しさにも現れているように思う。
第一の青春においても孤独感が醸す寂しさはあった。この寂しさは少青壮を通して青春に特有のものである。
いま寂しさはその寂しさに似ており、第二の人生の出発にあたっての未知なるものへの畏怖によるものと言える。そして付け加えて言えば、死への距離が一段と近づいたことによる切実さ加減は格段の差異がある。
ただ、この寂しさについては、下記別のコラムでも述べたのように、若き日も今も本質は同じものではないかと思う。

死を感じるとき、生はより研ぎ澄まされるのであり、そういう意味で今やはり青春と同じ精神模様が現れて来て何の不思議もない。
おそらくあの有名な「青春」という名の詩についても、70歳を過ぎたサミュエルウルマンはそういう精神を表現したのであろうと理解して間違いない。

   参考 「青春」

そういう意味で捉えた時、私にとって美智子さんへの恋は、やはり近代という概念と濃厚に関係していると思われるし、青春の再来とも不可分なのだと思われる。
私という個が人生で求めるものに、美智子さんの優しく美しい個性が濃厚に重なっているのだろうと思う。それは理想化なのかもしれないが、少なくとも私の人生で、そういう感覚を持った彼女以上の女性は存在しない。

美智子さんの「近代」を捉え直す契機がある

であるならば、このところしきりに、美智子さんの近代というものを捉え直さなければ気が済まない気がしている。以前にもそのことは記したが、やはり美智子さんの青春と近代について、この先のどこかで自分なりに整理をしておく必要があると思っている。
彼女が私に恋をしていたということから、多少の読み解きができるように思えてきてもいる。
僭越ではあろうが、それは誰のためでもない、私自身の第二の青春のためなのであるから、彼女にも許してもらえるのではないかと思う。



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