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「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その3 /岳父千田登文翁 その1

その1の中で記載しました、下記の事項に関して記します。

2)大正5年ころ/今村さん、銀子夫人と結婚。

 金沢在の岳父の千田登文は西南戦争時の乃木連隊長の連隊旗手を務めて以来、乃木さんは兄弟とも言える仲であり、上京のたび今村家を訪れ乃木さんの思い出話を語ったことが「今村均回顧録」に記されています。

千田登文翁と乃木大将

「今村均回顧録」には、『千田登文翁』との項目で、
・登文翁と乃木さんが西南戦争でめぐり逢い兄弟のような関係になる経緯

・日露戦争前北陸に師団増設の話が有り福井に決まりかけていた第九師団が登文翁と乃木さんの心と心の話し合いで金沢になった
というエピソードが記されています。

奥様銀子さん

千田登文翁は、今村さんの最初の奥様、銀子さん(登文翁の三女、今村さんの三児の母、昭和初めに物故)の父親に当たります。金沢前田藩の名門の出で、明治十年の西南の役、日清戦争、日露戦争に従軍しています。
銀子さんとの結婚は、大正5(1916)年、今村さんが陸大を卒業後31歳で、銀子さん19歳のときです。

「千田登文翁」

千田登文翁は昭和4(1929)年4月に亡くなられますが、乃木将軍存命中は、上京のたびに乃木さんを訪ね余人を交えず語り明かしたと言い、乃木さん殉死後は、乃木神社に付随してある乃木会の仕事に打ち込み、金沢乃木会支部長をしておられたとのことです。
今村さん結婚後は、上京の折には今村家を訪れ、思い出話を聞かせてくれ、今村さん自身、そのことをとても楽しみにしていたと記されています。

前述したように、「今村均回顧録」中では特に「千田登文翁」との項目を立て、岳父登文翁の思い出をしっとりと詩情ある文面で記されています。
私は「今村均回顧録」中でも特に好きな部分です。

1.西南の役
西南の役の最中、少尉で参加した千田登文翁は、歩兵十四連隊乃木連隊長の旗手として着任します。
しかし、乃木歩兵十四連隊は、その前に植木で薩摩勢と合戦し、薩摩勢の前進は阻止し得たが旗手河原林少尉が夜戦で斃れ、軍旗が賊軍薩摩勢の手に渡っていました。乃木さんはすぐ自刃してお詫びしようとしましたが、野津旅団長や山県有朋の命令で其れを禁じられ、登文翁が着任の申告をしたときには、夜も眠れないほど悩み悶え続けていたところだったと言います。
このあとは、「今村均回顧録」の記述を引用したいと思います。
「そばで見ているわしは、こんなことにしておけば、そのうち気が狂うか、病気になって死んでしまう、いっそ死なしてあげるほうが、武人の名誉のためでもあり、心の苦悶をなくしてあげることにもなる。いいおりを見て。切腹させてあげようと考えていたところ、日がたつにつれ、乃木さんの人格がよくわかるにしたがい、今度は『このおかたはお国のために、お生かしてしておかなけりゃならん』と思い込み、それこそ親身になってお慰めしてあげた。乃木さんもわしを弟のように、時には兄のようにおたよりになり、わしが何かいうと『うん、そうしよう』とうけ入れたし、気分も少しづつほがらかさを加えるようにもなった。やがて、熊本城を包囲していた薩軍が退却した後、乃木さんは、鎮台参謀長となったので、連隊から去られた。」
と、こういういきさつがあったということです。

2.第九師団新増設時のエピソード
明治三十(1897)年ごろ、日露戦争の危機が迫る中、海軍もそうですが陸軍も増強を急いていました。そして、北陸地方に師団の増設が決められ、その駐屯地をどこにするか、という問題が起きます。
このとき、福井が先んじて誘致運動を行い、中央では福井に決まりかけていたと言います。金沢は油断していたのでしょう、急にそのことに気付き、旧前田藩の重臣を含む知事、市長、議員らが集まり対策会議を開きました。東京の旧藩侯からの情報で乃木さんがお忍びで金沢と福井を実地検分して最終決定がされるとの情報を得たので、乃木さんと親しい登文翁を呼び出し乃木さんへの周旋をお願いすることになります。
これも少し「今村均回顧録」から引用してみます。

「『、、、、、師団はぜひこちらにしていただくよう、(乃木閣下に)お願いしてみてはくれまいか。こんなせっぱつまった時機、必要とあれば、費用のことなどは、いくらかかってよいこと、このへんもお含みの上で、ぜひお会い申し・・・・』
わしの癇癪玉がいっぺんに破裂してしまった。
『だまらっしゃい。乃木さんをお金で動かす。そんな無礼のことは、もってのほかじゃ。わしはな、乃木閣下とお会いしたい気持ちでいっぱいじゃが、師団問題ことなんかじゃない。師団などは、おかみのおきめになるところでよろしい。運動なんかするのは、大まちがいですぞ。こんな不愉快なはなしはまっぴらご免」
席を立って帰ってしまった。」

しかし、乃木さんが金沢に来たとき、その宿舎を登文翁は訪れます。

「『千田!よくやって来てくれた、内密の旅行なので、宿に来てくれなどと、手紙は出せんでいた。が、わしはおぬしがきっと会いにきてくれるだろうと待ちかまえていたんじゃ。会いたかった』
そう申して眼をうるませておられるので、わしも思わず涙を流してしまった。
(中略)
『師団の問題ではどこの地方も神経をとがらせているのでな。どうしてかぎつけるものか、すぐ知られてしまう』
『師団がどこになるかは、おかみのおきめにお委せ申しておくべきものですのに、地方の人々が、運動を致すのはまちがいと存じます。この千田めは、現役時代のことを考えまして、練兵がよくできるところが第一、その次は、大勢の若い兵隊たちが、はげしい練兵のあと、冷たい良い水が飲め、土まみれのからだを洗い、気分をのばす風呂の水や、泥と汗によごれた被服を、よく洗濯できる水が十分につかえるところに、おきめ下さることだけは、願われてなりません』
『おぬしのいうことは、尤もじゃ。お互い、西南の役のときは、良い水を探したものだったものな。千田!安心せいよ。陛下はな、良い水を兵が飲めず、入浴や洗濯の水にことかくような土地に、師団を設けることなどは、決してお許しにならん・・・・。さあ、今夜は、語りあかし飲みあかそう・・・・』
(中略)
金沢歩兵連隊の毎年の軍旗祭日の式典と祝宴とには、師団長よりも知事よりも、退役少佐の千田老人を首席にすえることが、慣習となっていた。
(中略)
幾十年前、既に福井市に内定されていた第九師団が『良い水の沢山ある処』の金沢に変更されたのは、乃木将軍と登文翁との、心と心とのはなし合いの結果だったと、地方一般の人々に信じられていたためである。」

今村さんと乃木さんを結ぶ赤い糸はこのようにむすばれていたのだということがよくわかります。







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