創作ノート 8

どうも創作エントリをはじめてからというもの、閲覧数とフォロワーさんが減った。なんでもかんでも一つのアカウントにぶちこむのはよくないのかもしれない。また、人の悪さを自分では気づかないうちに見せてしまっているのかもしれない。

またウィトゲンシュタインというちょっと面倒くさい学者をタイトルに出してみたりしたことで、よくわかってないくせに衒学的に見せようとしているという臭みが感じられて敬遠されているのかもしれない。

6章の手直しは大幅に遅れた。というのも、どう考えても、この三人を登場させる必然性が、「いじめの真相」を主題にするならば、なくなってしまうからだ。

照本と榊原の関係、鬼頭と志村の関係、小室と弘海の関係は、榊原→私、私→志村、神部→私という恋愛ベクトルによって本来は三角関係化するはずだった。

物語は三角形ができないと進展しない、と先生は力説していた。色々な三角形を潜在的に作っておいたら必要なくなっちゃった、という典型である。

今回は「善」の話なのに、三角関係を設定しようとしたことで、破綻したのかもしれない。

「いじめ」の問題を解決するにはどうしたらいいか、という主題ではなく、「いじめ」のような他律的な状況にまきこまれた際に、何を行うことが「善」なのかを追求することが主題なのだが、どうもそういう方向に話が進まない。

フットの言う「徳としての善」は、理念としての「善」を遂行するのは人としての義務である、という解釈とは異なり、人間の中にポテンシャルとしてある「徳としての善」を開花させることは人の目的なのだ、という解釈っぽい。また、「善」を行うことがめぐりめぐって功利的だから行うことが良い、とする解釈とも違う。

状況や他律的なものに動かされるのではなくて、人の目的として「善」の実現があるわけだから、それを開花させるように自ら潜在的なものを現勢化させることが自然にかなう、とフットは言っているように読めた(よくわかっていないが)。

篠原成彦という方が論文で書いておられたことなのだが、

一九八四年の彼の著書は描き出したのは、言語理解、そして知と心の自然主義的な説明を求める人々─マッギン自身もそれに含まれる─を支える貴重な洞察を与える一方で、彼らに敵対する誤った主張を行うという、相反する二つの顔を持つ哲学者ウィトゲンシュタインの肖像であった。

篠原成彦「自然主義とウィトゲンシュタイン」『哲学』(44)1994

というマッギンという学者について書かれた文章は、非常に示唆を与えられた。

この敵対者に対する「貴重な洞察」こそが、フットが述べる「ウィトゲンシュタインの助言」だと思う。

この論文は、クリプキの規則遵守に関するパラドックスを読むときの、補助線になった。フットとマッギンの関係はよくわからないが、『オックスフォード哲学者奇行』(児玉聡 2022)を読むと、マイアミ大学の前に、オックスフォードを噛んでいるし、影響関係があるんじゃないかと思ったり。

それはそれとして、三角関係が物語を分岐させようとする芽を、とりあえず摘んでいかなければならない。だから、照本の恋、志村の恋については、とりあえずペンディングにしておいた。登場人物が多いことの弊害が、ここに現れた。

やはり三角関係は、一物語に一個が適切なのだろう。

「いじめ」問題の真相をドキュメントにした場合、私、弘海、神部、黒岩、榊原…あとは、最後の毅の侵入に対して、照本、鬼頭が立ち向かうという点で、必要なパーツだが、志村は最後までいらないかもな。

今回、かなり問題な矛盾があって、それは、初稿で毅の現況を小室さんが「知らない」「思い出した」とか書いていながら、結末で「実は毅はよく来てました」みたいに書いた部分だ。なので、それは修正をかけて、小室さんは毅がよく来るのを知っていて、同窓会のために場所を提供した、という感じにしないといけないかな。

その辺の毅に関する問題については、キチンと書き込むことにしよう。

一応、せっかく書いたから、創作大賞に応募したいけど、間に合うかしら。


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