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西沢渓谷、郡上八幡、鏡山 〜Recycle articles〜

クタクタに疲れた体は、ご飯を受け付けない。

ちょうど料理酒も切れたことだし、一本買っておいた、埼玉県は川越の銘酒「鏡山」。

嫌な気持ちと、こわばった体をほぐすために、一杯やる。

生酛、生。

旨い。

ゴーヤのおひたしが食える。

旨い。

イカと昆布の合物が食える。

たくさんは飲めないものの、染み入った。


30も半ばを過ぎたころ、突如として「水」に対する関心が目覚めた。

今までは、「水」なんていうものは空気と同じで、恥ずかしながら意識の上にのぼってこなかった。

病気をして、諏訪でしばらく静養する中で、何もすることがないのでぼんやりと渓谷などを散歩したり、湧水を山奥まで汲みに行ったりした。

よく行ったのは穂高連峰の方にある湧水。

白州の湧水。

伊那のあたり。

今調べてみると、もう取水できないところもある。

大きな地震があったときも、諏訪にいた。

もし日本が滅びるならば、自分は渓谷で死にたいと思って、数日後西沢渓谷にいった。施設は結局、爆発はしなかった。

この時はまだ子どもも産まれていなかった。

結果、何とか生き延びてしまったのだけれども、ごちゃごちゃやっていたら「水」に関わる想像力について思いなすことが多くなった。

もちろん、日本酒に凝りだしたのと、「水」への関心は軌を一にする。

酒造りには、良い「水」が不可欠だからだ。

酒蔵で仕込み水を飲ませてもらうたびに、「水」の味わいにも千差万別があることがわかった。

そこまで多くの酒蔵を巡ったわけではないが、妙高市の鮎正宗の仕込み水は、関田山脈の雪解け水。柔らかく鮮烈な冷たさの水だった。それが今のところ最高だ。

地方へ、何らかの用事があっていくと、必ずその地域の川や湖、湧水などをめぐるようになった。すると、思いがけない発見へと繋がることもあった。

岐阜県の郡上八幡には、水と生活が密接に結び付いた生活があると思った。

郡上八幡は、歴史で時々出てくる郡上一揆の舞台を知ろうと訪れた。

しかし、水の音が綺麗な街で、それに魅了された。

そうした発想の一端を、渡部一二氏の『水の恵みを受けるまちづくり 郡上八幡の水縁空間』(鹿島出版会 2010)は明らかにしてくれる。

生活設計の書籍ということもあって、鹿島出版会から出版されている本。

黒い装幀が潔くて、ただ、好きだ。

ただ、この本は装丁がそのタイプの建築書籍ではない。

内容は、知ったことで何かが変わることは少ないかもしれない。

けれども、非常に面白いアイデアがいっぱい詰まった本であることは間違いない。

即効性はなくとも、近い将来にこうした発想は、必要になってくるのではなかろうか。

森や木だけではなく、水というファクターも、生活の中でなんらかの形で活かせるはずである。

もちろん、歴史をひもといていくと、水は生活に不可欠なだけではなく、差別や自然の酷薄さとも結びついている。

したがって、水を完全に制御できると思いあがってはいけないのだろう。

そうした水の両義的な姿は、文学作品の中に多くとどめられている。

海、灘、川など、そうした文言の書かれたタイトルの作品は数多いことからも、それらは言える。

水をめぐる旅を、ゆっくりとしたいものだ。

三島にも行ってみたい。

三島も水を再生した街づくりをしているからだ。

『清流の街がよみがえった―地域力を結集 グラウンドワーク三島の挑戦』(中央法規 2005)はその記録だ。

冷やで。香りは水飴のような笹のような。酸味は穏やか、旨みが広がり、後味に余計な雑味がない。甘みもほのかに感じられて、口当たりが柔らかい。

ちびちび飲むからだが、いくらでも飲めそうだ。

また、西沢渓谷をダラダラ歩きたい。

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