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【エッセイ】うさぎ小屋

 黒い壁が際立つ平屋だった。土壁の真ん中に太い中柱が立って、大きな屋根瓦が空を背に美しい風姿を晒していた。外壁が手を広げる表門には小さな潜(くぐ)り戸がある、ひと昔前までの典型的な日本家屋であった。路地の横にぽんと置かれてあるだけで、先祖代々からのこの辺りの暮らし振りを、十分に肌に感じさせる佇まいであった。
 ふた月ほど間があって帰省してみると、いっそう白髪が増えて急に老け込んだ母の姿にまず驚いた。次に驚いたのは、路地から実に恰幅の良かったその家が、あっさりと消えてしまっていたことである。
 すでにその家があった場所は均等に均されており、四分割されて区割りまで済まされていた。前回の帰省からその間、わずかに二ヶ月である。儚いというよりも、連綿と受け継がれて来たものを断ち切ることに、まったくの躊躇と畏怖を抱かない人心に悚(しょう)然とした。
 ことは一つの家屋だけの話ではない。古き良き時代を留めていたいくつもの家々が、いにしえの面影をなんとか保っていた町角から、ここ数年の間に泡のごとく掻き消されてしまった。
 あとに建ったのは、打ち壊した家の坪数を数区画に分割したマッチ箱のような家である。屋根に瓦はなく、外壁に土は使われておらず、建てるのに数日とは掛からない、建った日からあとは朽ちてゆくだけの代物だ。
 家も一代限りの使い捨ての時代となった。現場には夕刻にちょっとだけ顔を出して、職人と打ち合わせをしていくネクタイ姿の男たちにとっては、家も売れさえすればそれでおしまいの商品なのだろう。
 彼らにとってはこの国の風土も、建てる場所の来歴も、近所への配慮もおかまいなしである。昔、時を要して建てる家は、その町の景観であった。今は、建てるほどに景観を壊してゆくコンビニである。
 一瞬にして打ち壊された黒壁の平屋には、かつて老婆がひとりで住んでいた。横に母屋があって、老婆の息子家族が住んでいる。その家の女の子とは幼馴じみで、母屋と離れを繋ぐちょっとした中庭のような場所でよく遊んだものだ。  
 子供の頃、離れの家に入ってゆくと、奥からゆっくりと老婆が出てきて、上がり框(かまち)に腰を降ろして、盆に載せたお菓子をよく振る舞ってくれた。何も語らず、子供たちが食べるのを見て、ただにこにこと笑っているだけの人だった。
 子供たちは今、車を避(よ)けるようにして沿道で遊んでいる。そして、友だちが持ち鍵で開けた家人のいない家に入って、蹲るようにしてコンビニで買ってきたお菓子でも食べるのだろうか。
 子どもたちの記憶に土の触感も草の香も残さない、海の向こうからの揶揄ではない実にほんとうのうさぎ小屋が、かすかに残っていた古の面影も消し去るように、次から次へと列島の隅々まで埋め尽くしてゆく。

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