せいいち

”太陽の塔”とともに育ちました。中年男性。勤め人しながら日常に溢れるいろいろな物や事を…

せいいち

”太陽の塔”とともに育ちました。中年男性。勤め人しながら日常に溢れるいろいろな物や事を題材に書いて行きたいと思います。 ドラマ、映画、音楽が好きです。2022年は「鎌倉殿の13人」に、はまっていました。

最近の記事

【小説】ひとひらの花

それはまるで滝の中に身を浸したかと見紛うばかりでした。私の身体は一面の薄らと白い水面の上を滑ってゆくかの如くでした。私はおもいきり腭を上げて、その向う側にあるはずの夜空を覆い尽くした花花花を見上げて歩いておりました。その薄紅の花の間を洩れて、きらきらと煌めく光りが、私の歩調に合わせて点滅しておりました。それは、洩れ来る星々の明かりなのですが、まるで花の水の流れの中を行く身になっている当方の感覚にしてみれば、星の瞬きが、落ち来る滝に湧き立ち上る水沫きの如くに感じられたのです。

    • 【エッセイ】うさぎ小屋

       黒い壁が際立つ平屋だった。土壁の真ん中に太い中柱が立って、大きな屋根瓦が空を背に美しい風姿を晒していた。外壁が手を広げる表門には小さな潜(くぐ)り戸がある、ひと昔前までの典型的な日本家屋であった。路地の横にぽんと置かれてあるだけで、先祖代々からのこの辺りの暮らし振りを、十分に肌に感じさせる佇まいであった。  ふた月ほど間があって帰省してみると、いっそう白髪が増えて急に老け込んだ母の姿にまず驚いた。次に驚いたのは、路地から実に恰幅の良かったその家が、あっさりと消えてしまってい

      • 【小説】白い背中

         午前五時。  髪のすっかり白くなった老人の朝は早い。  老人は、その時刻、毎朝慈しんで小奇麗にしている白い愛犬を連れて散歩に出る。十年前、老人は、近在で仔犬が七匹生まれたと聞くと、さっそく行って頭を下げて、一匹を貰い受けてきた。  列島の南から、桜の蕾の芽吹きの知らせの届くころに、老人の家にやって来た一匹の仔犬は、当初病みがちであった。しかし老人の全身から照らす慈愛を日に日に吸収し、花が去って若葉の照るころには病は自然に頭べを垂れて地の奥へと去り、仔犬は老人を見ると飛び跳ね

        • 【エッセイ】私ファースト

           年が明けた。今年の冬はすこぶる寒い。いつ以来だろう、こんなに寒い冬を過ごすのは。例年暖冬、暖冬で、つい温暖化の急激な進行を予感して怖くなった。ところが今年は寒さに震え、新型コロナウイルスの雲が世を覆い、見上げる空は青く澄んでいるのに気持ちはいっそう滅入るばかりだ。  炬燵にでも入ってゆっくり考える時間が持てれば、ぞっとするこの閉塞感は寒さやウイルスの外的因数が原因でないとすぐにも気づく。この国を覆う暗い閉塞感の芽は数十年ずっと社会の間に潜んで、この数年でいっきに芽吹き出した

        【小説】ひとひらの花

          【小説】朝露のころ

           如是我聞  言葉が、彷徨っている右上、左下、ふらふらと、右下から左上、そして真ん中へと。銀色に枠取られたフレームの中を、言葉が彷徨っている。  黒い背の中を、白い光を帯びた「如是我聞」という言葉の行き交う様は、どこか遥か遠く宇宙の虚空を想わせる。  初めに言葉が彷徨ったその虚空の中に、今度はこんな言葉が立ち上がって来た。    爾時王舎大城有一太子名    阿闍世随順調達悪友之教    収執父王頻婆娑羅幽閉置    於七重室内制諸群臣一不    得往  この言葉はお

          【小説】朝露のころ

          【エッセイ】守るべきもの

           十年ひと昔というが、明治の世も二十年たって、まだ髷が落とせぬ者がいたという。果たして何人いたのか、数には疎いが、思うに相当数いたのであろう。世の移り変わりに馴染めぬ者も、実は多い。  成果で給与を決め、巷は外国人で溢れ返り、カジノまで導入したいという。政権は政策の実現のためにあるが、志向する政策の方向性に違和感を覚えるのは筆者だけか。違和感が来る疎水を遡ると、日本文化という水源に想い至る。  成果主義も、人口減に水増しして対処しようとするような疑似移民政策も、すべては欧米を

          【エッセイ】守るべきもの

          【小説】風の音を聞け

             昭和○年×月×日  戸を叩く風の音で目が醒めた。枕元の時計を見る。午前五時。眠るときは満天の星であった。寝覚めは一転して吹雪である。 「よし、行こう」  加納さんはすでに起きて、靴を履いていた。あと二、三時間もすれば、この吹雪は止むと踏んでいるのだ。計画通り今日中にこの山を越えたい。私にはもちろん否も応もない。加納さんに付いて行くだけである。  午前六時。小屋を出発。まずは北岳峠を目指す。靴下は、新しいものを下した。装備は、二重三重にチェックした。大丈夫だ。  出発して

          【小説】風の音を聞け

          【エッセイ】ヒステリー球

           このところ咽がイガイガして治らない。しかも飲み込むことそれ自体に困ることがある。丸い液体の塊のようなものが咽に引っかかって通りが悪くなったように感じる。初めは風邪の兆候かと思っていたが、一向に治まってくれない。おかしいなと首を傾げていたら、家人が先にネットで調べてくれた。  ヒステリー球というらしい。ストレスが強まったり溜まったりすると咽が悪さをするようだ。よく言ったもので、たしかに咽に何か玉のようなものがつっかえて息苦しさを感じる症状に、よく合点がいく命名だと感心した。

          【エッセイ】ヒステリー球

          【小説】青き島影

           見晴かす、緑美しこの国―――。  これで幾度上空からこの国の風光に接することになるだろう。  今私の膝の上には大拙居士の本がある。今回の日本赴任に際し、ボストンから東京へ向う機内では、私は主に居士の本を愛読している。前回の十年に及ぶ東京滞在は、機内ではずっと「エコノミスト」だったが。  ちょうど今、低空飛行に入り機体の降下を身体に畳と感じている。飛行機が降下を始めると、私はいつも決まって窓外に目を遣る。  ―――わたしの大和。  一時間程前から私はすでに窓の覆いを上げていた

          【小説】青き島影

          【エッセイ】武士の矢面

           武という漢字がある。武士などと戦(いくさ)のイメージが強く、戦闘を想起させる文字である。しかし本来、この字の由来は弌(ほこ)を止める、すなわち戦うことを治めることだという。だから、武士とは戦うことを鍛錬して、戦うことを修める境地に至った人士のことである。事物を治めるにはまずその事物をよく鍛錬して身に付け、事物の内奥に深く分け入って道理を知らねばならない。さもなければ、対処の仕様も不明だからである。そのため古来、道と言い習わされる事物には蔦のような稽古の跡が連綿と受け継がれて

          【エッセイ】武士の矢面

          【小説】眺め

          病室の窓から眼下に眺める楓の梢は、もうすっかり葉を落とした。  つい二、三日前までは、構内を走るあの楓の並木には、まだ幾らか葉が残っていたのに――。  ゆっくりと体を起こしながら、伏し目がちに洋子はそう思う。三日前に癌の手術を終えたばかりで、昨日くらいから、ようやく食事も喉を通るようになった。  味も素っ気もないプラスチック製の卵色をしたお椀に、丁寧にきちんと、これも黄味色がかったプラスチックの箸を、椀の縁に揃えて置いて、雄一がそっと朝のお粥を渡してくれた。  渡し終えると、

          【小説】眺め

          【エッセイ】「東京二〇二〇」の空に

           なぜ、この時期に五輪を開催するのか――。  結局、開催する側の誰もが単純なこの問いに正面から答えることなく、オリンピックは終わった。多くの国民の大きな声をよそにオリンピックを強行したともいえる為政者は、引き続きパラリンピックを開催して東京の夏は暮れた。  この問いへの答えは、至極簡単なことだ。  開催する側に私的な計算はあっても、結局、この時期に五輪を開催することへの公的な回答は持ち合わせてはいなかったということに尽きる。だから、国民へのアナウンスを曖昧にして、報道規制を想

          【エッセイ】「東京二〇二〇」の空に

          【小説】白い掌

          「たしかこの辺だったと思うんだけどなあ…」 「それで、おばあさんの家、わかるの?」 「ああ、あった!  あったよ、ここだよ、ここ。――でも、この壁、塗り直してあるなあ、あの頃は木の壁だったもんなあ…」  守は急に足早になり、左手前方に見えた平屋を指し示しながら、隣の直子にそう言った。クリーム色をしたコンクリートの塗り壁が、まだそれほど古くはない家の前まで来ると、ふたりは足を止めた。  その家には、守が小学生だった当時からすでに使われていなかった便所の空気抜きの煙突があ

          【小説】白い掌

          【エッセイ】哲人、走る

           さまざまな問いを投げ掛けて、夏のオリンピックが終わった。 競技場に見る競技者の背景には、かならず「TOKYO 2020」のロゴがあった。これは本来なら、一年前に開催されていたオリンピックなのだ。 二〇二一年の東京の盛夏で終焉を迎えたことに、表層と実態との乖離と歪み、その狭間でかき消されていった声なき声の怨嗟を聞くような気がした。  しかし、ひとまずここでは、表面に現れた競技者の明白な話だけをしよう。  あの走りを見たら、とうに五十の坂を越えた身でランニングシューズが欲し

          【エッセイ】哲人、走る

          【小説】ホイアンの日本橋

           ハノイ行きを告げるアナウンスが流れている。  ――乗って来た便の折り返しだな。  そう思いながら、足元に置いたトランクにそっと目を落とした。  それにしても、とふっと笑みが口元からこぼれる。空港の搭乗案内の声色とトーンは、どうしてこうもどこの国もよく似ているのだろう。ここ東京も、上海も、パリも、そしてあのハノイも。  ただし……。  彼はまた、足元の使い古された黄色いトランクにじっと目をやった。今回これほどこの国というものが、日本が、遠くに感じられるようになるとは

          【小説】ホイアンの日本橋

          【エッセイ】被害者の向う側

           列島に大きな爪痕を残した長雨が去ってひと月になる。  死者多数のほか、さまざまな被害を耳にする。しかし、それが実はどこか他人事で、身につまされるところがないのが本当ではないか。口にすると憚られるから、口の端にはできないのが事実であろう。  九十年代以降、あまりに甚大で、あまりに考えられないような事件、事故、災害が頻発し、情報過多に報道されて日常の光景となり、人の気持ちから弾力性が失われて硬直化してしまったところに、その原因はあるのかもしれない。  他者の悲しみも、単にひとつ

          【エッセイ】被害者の向う側