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同じ日なんてないのに同じことを繰り返す奇妙さ

こんばんは。考えてみれば、「おはよう」や「こんにちは」よりも「こんばんは」という言葉のほうが口馴染みがよくタイピングも速い気がします。おそらく、こういった記事を書くときはたいてい日の沈みきった夜中であることが多いのでしょう。ご容赦ください。


さて、前回にも書いたように、夜とはどうも不思議なもので、とかく私の心にゆさぶりをかける趣味があるようです。私からすればたまったもんじゃありません。毎回毎回生きた心地がしないので当然のように、眠りにつく頃には時計の短針がおもしろくない数字を指しているのです。


なぜここまで夜になると私は、つい昼頃まで行動を共にした自分自身の存在が気になって仕方なくなるのでしょうか。そうなんです。日中は自分のすべきことを消化して、小学校の職員室みたいな香りのする飲み物を片手に読みたい本を読んで、この足で見たい景色のところまで自分を運んで、「充実」という言葉を辞書に聞けばこれらの活動を紹介してくれるに違いありません。とにかく、不幸せとは長テーブルひとつはさんだ向こう側にあるような生活を送ったことは確かです。それでもまだ何か足りないのでしょうか。


「昼」という過去にいた自分を振り返る役目を負った「夜」の自分

夜という時間はもっぱら部屋の中を満たしている。
これがたばこの煙であれば、今度は夜は私の肺に宿るのでしょう。

そんな妄想は置いといて、とにかく昼の自分を空から見下ろすようにその日を振り返るのわけです。その肉厚な、一定の幅を持った時間はやがて色彩の複雑さがいくぶん簡略化され、その立体感はやがて平面に落とし込まれ、写真のような記憶の世界の住人として今度は生きていく。

そうするとその世界の中に同じような顔をした住人をもう一人見かけるのです。彼はさきほど新しく入ってきたあの記憶よりも旧い、でもやっぱり二人はよく似てる。目を凝らして注意深く見てみる。

同じだ。どちらの記憶においても、自分は同じ場所に足を運んで、同じものを食べて、本の表紙は違うけれど、読書という行為に及んでいるではないか。ほかに違うのはせいぜい日付と木が枯れているのと服の季節感ぐらいじゃないか。

では、旧いほうと新しいほうで自分は何が違う?何が変わった?
サイゼリヤの間違い探しより難しい問題に見えた。春の初め、きまぐれに吹きつける風にさらされて若干かさついた唇はその答えを出さなかった。その口はついにつぐまれたままだった。

季節の変化、時間の変化に取り残されていたことに気づくのにたいして時間はかからなかった。いっそう寒く感じた。

本を読めども一向に知識は増えていない気さえした。増えたのはそんな自分を正当化するためのこざかしい言い訳のレパートリーなのではないか。

心拍数が増える。あれほど静かだった午前一時の景色を台無しにしてしまうほど心臓がうるさくなる。

否定したい。幸せだったじゃないか!さっきの自分がそう言っていた。間違いであるはずがない。そうだ、証拠だ!挙げてみろよ、証拠を。
おぼつかない呼吸を繰り返し体を温めるように声を上げて鼓舞を何度か試みるも、悲しきかな、ふとスクリーンに映る自分の表情はすでに冷え切ってしまっていたみたいだ。


ルーティンの正当化に失敗したツケ

頭がうまく働かない。目の前に広がるひどい光景を説明する言葉が出てこない。文法がぐちゃぐちゃだ。おかしい。小学生の頃は漢字のテストで毎回満点を取っていただろう。あまりにも当たり前だったから親も驚かなくなってついに褒めることさえなくなってしまったことは鮮明に記憶に残っている。

高校卒業時にはおよそ2,100もの漢字を習得したことになるらしい。漠然としたおそろしい感情を切り分けて、分類して、言語化することに失敗するとどうやらそのおそろしさとやらが、言語を纏っていない、赤ん坊のように無防備な脳をいっぱいに埋め尽くしてしまうらしい。

まあつまりあれだ、いつしか考えるのをやめてしまっていたらしい。
現実の嫌な意味での多様さに毒された思考回路の自己破壊活動を知ってしまった現実から逃れるために象牙の塔にこもっていたわけだ。
ここまで長ったらしい文章でなんとか体裁を保とうとしているのか定かでないが、とにかく「思考停止」という素敵な四字熟語に「ルーティン」というルビを振ったという事実は変わることがないだろう。

加速する理想を追いかけるには足が遅すぎた

幼少期から夢のようなファンタジーが好きだった。ミルモでポンやカービィのアニメを見て、車に揺られながら素敵な音楽に耳を傾けて窓に覗く青空にあこがれの感情を膨らませていた。私が他者を強く意識するようになってからだろうか、最大公約数的な生き方が脳裏に焼き付いていたことだけは確かだ。私は人の目を気にせず夢を追いかけるほどの心の強さを持っていたわけではない。かといって現実や今この瞬間という刹那的時間に対する鋭い嗅覚を持っているわけでもない。

しかし、幼子のような桃色の感情に強く結びついた理想を捨てることなど決してできなかった。どうすればいいのだ、どうすればよかったのだ。

他人の価値観に耳を傾けすぎた、一度知ってしまったら知る前の自分に戻るなど不可能なのだ。知識とは不可逆的な劇薬だ。なるほど、アダムとイブが楽園から放り出され、一生どころか人類の種全体にもおよぶ罪を負うことになったのもうなずける。


すべての絶望が直接的に死に結び付くとは限らない

はっきり言って絶望した。理想通りの未来に進む気配を一向に見せないこの世界に。他者を信用せずおのれの利益のために同じ人間を利用するそのありように。なによりもそれを知りながらただ望み唾を吐き憎むばかりでわずかな理想にさえも到達しようと行動を起こさない自分自身に。

けれどまあ現実に目を向ければ恵まれた生活を享受しているし、家族もわずかな友人も与えられた幸せな人間が間違いなくここにいるのだ。それに明日を憎むということは、私に当然に明日がやってくるという傲慢な態度の裏返しでしかないのだ。客観的に見れば無知蒙昧な多感な時期の真っ最中にある人間のいちたわごとに過ぎない。そんなに絶望するならどこかの文豪のように川に身を投げたりでもしたらどうなんだ、と問いかけてみよう。ふてくされた態度で応答なしに違いない。

だから本を読むのだ、本当に絶望したことがないから他者の知識や経験をおすそ分けしてもらって価値観に磨きをかけ、戯言生成botから卒業するのだ。だいたいくよくよしすぎなのだ。こういうときは決まって幸福の基本である肉体の欲求にしたがっていないことが多い。ちょっとおいしいご飯でも食べて寝てみよう。あとすこし春休みが残っている。9時間だ、9時間寝てみよう。ただ大学に通う程度だろうが、どうせ忙しくなったら寝る時間も減って病む時間も確保するのが難しくなる。

無駄なことをしてみよう。いや、無駄なことだけをしよう。考えごとにふけっていられるくらい無駄のあふれる生活はやはり幸せなのだ。古代ギリシアにおいても、奴隷に生活の面倒を任せて手持ち無沙汰になった人間から哲学が生まれたのだ。「school」の語源はギリシア語の「schole(暇)」から来ていたという大衆的な雑学がここに活きてくるとは。暇も無駄も極めればおもしろいかもしれない。いつしかソクラテスやプラトンのような哲学者になった自分を想像してみる。なんだ、案外悪くないじゃないか!


理想は無駄の集合体かもしれない

無駄なこととは限りなく無責任におこなえるものだ。私は無駄なことでいいことを無理やり役に立つものにしようとした。あるはずのない責任感に押しつぶされそうになっていただけなのだ。無駄であれば、責任など追わなくてもいいから挑戦しやすいだろう。ならば私の理想とするものも無駄であってもかまわないはずだ。

世界には役に立つものと同じくらい、いや、それ以上に無駄なものであふれかえっている。発明家や芸術家も原初は役に立つと思ってやっていなかったはずだ、人の目など気にせず無限の無責任に、だれに命令されたわけでもなく没頭していたはずだ。彼らにできてなぜ私にできないのだろうか?彼らは非合理な人間であって、私もまた同じ人間なのだ。環境や肉体、才能が平等でなかったとしても思想や価値観は無形資産でだれでもその手に取って平等に信じることができるはずだ。


私は一人じゃない。みんなとほとんど同じで替えのきく無駄な人間だ。


早く明日を無駄にしたい。明日の私はいったいどのように一日を無駄にするのだろう!


明日が楽しみでしょうがない!あ、いや、もう今日か。

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