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短編『こわいもの』

 どこにでもいる二十代前半の男。その日は引っ越しだった。初めての一人暮らし。引っ越しと言っても、派遣会社の寮になってる家具家電付きの小さなワンルームで、実家から段ボールを二つ三つ運んで終わった。実家で用事を済ませてからバタバタと引っ越しを始めたので、落ち着いたのは深夜になってた。男は細かい片付けが面倒で、明日でいいやとベッドに転がったら、いつの間にか眠っていた。
 眠り始めて、どのくらい時間が経ったのか。男は身体が痛くて目が開いた。身体に力が入り過ぎて痛い、そんな感じだった。仰向けの姿勢で天井が視界に入っていて、目を開けた時からなのかは覚えていないが、耳鳴りが凄かった。シンバルを小刻みに耳元で鳴らされてる感じだった。シャンシャンシャンシャンと。

 そんな状態なのに、初めは寝ぼけてボーッとしていた。ふと、身体を起こさなきゃと思い動かそうとしたが、全く動かなかった。

「これって、金縛りってやつ?」

 そう思った瞬間、怖さが急に襲ってきた。なにせ、心霊的なことを経験したことはなく、金縛りも初めてだ。だが、金縛りは身体が疲れていたら起こると聞いたことがあったので、これは霊的なものじゃないと自分に言い聞かせていた。

 目は、しっかり開いてて天井が見えている。しかし、なんていうのか、黒いモヤがかかってるっていうか、曇ったフィルターがかかってるというか。とにかく視界がボンヤリしていた。

 それから、シャンシャンうるさい耳鳴りが、よく聞いてみると、何か聞いたことのある音だった。

「これ、シャンシャンじゃないな。なんだ、これ。あっ、赤ちゃんの泣き声だ」

 そう気付いた途端に、その泣き声がドンドン大きくなってきた。

 「勘弁してよ、泣きたいのはこっちだよ。」

 男が恐怖にドンドンドンドン押し潰されて、半泣きになっていたら、目の前のモヤみたいな黒いものが、グニャグニャ動き出した。ドンドンそのグニャグニャが形を作り始めて、目の前にでっかいでっかい頭部だけの赤ちゃんが現れた。そのくらいの時から、赤ちゃんの泣き声だけじゃなく、母親と思しき女の泣き声がしくしくと混ざり込んでいた。

 「がっつり心霊体験じゃん。なんなのこの赤ちゃんの頭。俺、喰われるの?目を閉じて、ナムアミダブツとか唱えた方がいいのかな」  

 そう思ったが、相手が見えなくなって、変な動きをしてるんじゃないかと思うのも怖いので、目を閉じることができなかった。

 それにしても、ずっと状況が変わらない。泣きじゃくる赤ちゃんの顔が現れてから、しばらく経ったが、相変わらず目の前の赤ちゃんは泣いているだけ。

「えっ。どうして欲しいの?明日から仕事だから、少しでも眠りたいのに」

 男は次第にイライラしてきた。

「そもそもなんで俺のとこに出てくるんだ?俺は人に恨まれるようなことは何もしていない。いや、自分が気付かないうちに誰かに嫌な思いをさせることがあるかもしれないが、こんな怖い思いをさせられる覚えはない」

 男のイライラは、どんどん増していった。
 
「いい加減にしろよ!大体、なんで俺ばっかり!」

 男の感情が爆発して、全身に物凄い力が加わった。男はベッドから飛び起き、叫び出した。

「なんで俺ばっかり、こんな目に合うんだ!なんとか平均レベル以上の大学には行けたけど、就活に失敗。遊ぶわけにはいかないと思ったから、派遣通して働くんだよ!なのに親は、大学出て派遣仕事か、だと?」

 男の叫びは止まらなかった。

「実家から通って、メシも食わせてもらってたから、ありがたいとは思ってるよ!だけどな!学費は全額奨学金だよ!俺の借金だよ!なのにグチグチと。やっと一人暮らしで、少しは安らげると思ったら、事故物件かよ!聞いてねぇよ!派遣会社の寮は、家具家電に心霊現象も付いてくんのかよ!いらねぇよ!」

 いつの間にか、赤ちゃんの顔も泣き声も消えていた。しかし、まだまだ男は叫んでいた。

 部屋の隅で母子の幽霊が、怯えた表情で男を見ていた。

 

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