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キーボードを…の場合はどうすると言うのか(2024.4.29)

今日は朝いち娘が起こしてくれたところから始まり、基本ずっと娘と一緒に遊んでいた。途中、二人でずっとyoutube観ているような時間があり、あれはなんか楽しくもなんともないし、親子ともども受動的に動画にさらされている感じがしてなんかもやつくというか。さりとて家でずっと遊んでるとyoutubeに逃げたい衝動と隣りあわせだったりもするので、そう思うとやっぱり俺としては外に出かけて遊びたいなって気持ちとなるけど、そこでいちばん考えないといけないのは娘がそれを求めているかどうかという話で、実際きょうは俺が誘ったところ娘から断られるような場面もあったのであり。けどそれで、だから行かないようにしよう、ってならない部分もあるのは、娘、なんとなく義母とか嫁とかから言われることを内面化しているところがあるように思えるというか、嫁や義母の「今日は気温が高い/低いから外で遊ばない方がいいよ」みたいな発言に日ごろさらされている結果、気温が高い日は「(外で遊ぶと嫁や義母にいろいろ言われるから・又は気温が高い日は外で遊ばない方がいいと思っているから)外で遊びたくない」という発言になっている可能性があると思えるから。要は遊びたくないわけじゃなく遊ばない方がいいんじゃないかと思っていて、それを遊びたくないという発言で表現している可能性があるんじゃないかと俺が思っているから。それとてまぁ俺の思い込みにすぎないというのか、義母・嫁の価値観というか過保護マインドへの反発からそのように思っているだけなのかもしれないけど…けどなんか義母と嫁の日々の会話に接していると、嫁の過保護マインドが義母由来なのはよくわかるところで、俺としてはその鎖はここで断っておきたいんだよね。過保護マインドだけであれば、娘が育児する場面にならない限り問題は顕在化しないんだけど、その根底にある過心配マインドというのかな、ゼロリスク志向と言ってもいいかもしれないけど。なんかリスクへのアンテナが過度に高く、かつリスクへの対応の判断に根拠が全くなく、全くないがゆえに青天井に対応していくことになるという。…ってだいぶ話がそれたけど、それてしまうくらい、俺は義母と嫁のリスク認識とか対応判断が過度に安全寄りであることをリスクととらえて日々過ごしていると。まぁ俺としては義母や嫁が娘に対して禁忌としていることを意識的に許容していこうかななどと思うけど、一方にあることを禁忌とする親がいて、もう一方にそれに従う必要はないと裏で言う親がいて、という環境で成長する娘が健全な規範意識を持てるのか、要は社会のあらゆるルールは建前にすぎず、くそまじめに従う必要はないという社会への向き合い方が醸成されてしまうとすれば、それこそ一定のリスクを感じるというか。一方で、「社会のルールにくそまじめに従う必要はない」というのはある意味で真理とも思われるので…まぁよくわからなくなってきたのでこのあたりで今日は筆を置く。

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