哀しき米国の歴史

この前の日曜日、夜8時からのYouTube番組で日本人牧師がこんなことを言ってました。「秀吉、家康のバテレン追放は理解できるところもあるが、もし、カトリックでなくプロテスタントが先に日本に来ていれば歴史は変わっていたかもしれない。キリスト教そのものを否定することは、人権を否定することに繋がり好ましくない。」

私は「本当に?違うと思います。」と秘かに呟きました。

カトリックはローマ帝国により広がりましたが、その内情に疑義を呈して始まったのがプロテスタントです。カトリックの支配から逃れてできたのがイングランド国教で、そのイングランド国教と対立し迫害から逃れた清教徒(ピューリタン)が米国開拓の始まりです。

アメリカで白人がしてきたこと、プロテスタントのしてきたことを振り返ると、この牧師の発言には疑問を持ちます。

1945年8月9日、長崎原爆は大浦天主堂を狙いました。カトリックだからでしょうか?

1492年、新大陸発見
最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。

「彼らと友好を結ぶため、それにまた、彼らは力ではなく愛をもって接すれば、より速やかに解放され、我らの聖なる信仰に帰依すると分かったので、彼らの何人かに赤いボンネット帽や首にかけるガラス玉の数珠といった安価な品をいくつか与えたところ、彼らはとても喜び、我々も驚くほど和やかな間柄になった。(中略)
彼らは良き僕になるに違いない。なぜならわたしが見るに、彼らはわたしが話すことすべて、すぐにあとについて口にするからである。また、わたしは彼らは速やかにキリスト教徒になると信じる。なぜならいかなる宗派ももっていないように思われたからである」
コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。

年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。

国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。

「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」
1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。

1493年インディアンへの大虐殺
1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。

インディアンがアメリカで最初に住み始めたのは、今から2万年以上前。アジア大陸からやってきた狩猟民族である。
1492年以前
南北アメリカには7500万人のインディアン
1492年 コロンブス大陸発見
1505年 黒人奴隷導入
1619年 アフリカ奴隷始まる
1620年 メイフラワー号
1640年 インディアン奴隷合法化
1830年 インディアン強制移住法制定
1853年 ペリー浦賀来航
1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンドという灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。
1863年 奴隷解放
1865年 南北戦争終了、奴隷制度廃止
1902年 ペンシルベニア州カーライルの「カーライルインディアン工業学校」の創始者であり、校長を務めたリチャード・ヘンリー・プラットによる、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「インディアン寄宿学校」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。寄宿学校の目的を、「インディアン(性)を殺し、人間(性)を救うこと(Kill the Indian, Save the Man)」だと言いました。インディアンを白人のように作り変えること、英語を教え、キリスト教に改宗させ、文明化することを使命だと考えたのです。下のようなビフォー(入学前)/アフター(入学後)の写真が、プロパガンダ用に撮影されました。寄宿学校の狙いは、虐殺や、自分たちには免疫のないヨーロッパ由来の天然痘の流行、居留地への強制移住によって人口が激減した先住民たちを、今度は文化的に抹殺してしまうことでした。

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