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知る事は難く、行うは易し

信じるというのは以前書かせてもらったように

人が言うと書き心や精神の中で言うと

そんな意味があります。



帰依というのは拠り所という意味になりますが

これは


どんな事が起きてもどんな事があっても

信じ全て捧げ奉る覚悟を意味するものだと

思います。


ですので本物の信仰者 仏教徒というのは

自分が暴力を振るわれたり殺されそうに

なったとしても

捧げきった身であるのだから

そんな事があっても動じません。

という とてつもない覚悟を持つ事であります。


言うは易く行うは難しと言いますがこれは

簡単に出来るようなものではありません。

ですが行うよりも もっと難儀であるのが

知るは難く行うは易し、であります。


行う方が難しいじゃないかと言われそうですが

知るというのは今起きている辛い事

もしくは苦しんでいる事、それをどうしたら

乗り越え 正しいものは何かと

苦悩する日々の方が大変で

それに気付きさえすればもうやることは

決まっていますから猛進するだけです。


人はわからない、道が見えない

どうして良いのか、何を指針にしたら良いのか

それがわからない 出会えないというのが

本当に苦しいものです。これは地獄です。


ですのでその道にさえ出会えれば 理解も出来

こんなに嬉しい事はないと思うのです。



信じるとはどういう事なのか

捧げきる心というのはどんな事か

それは日々の生活を正しく生きていく所に

一瞬のひらめきというのでしょうか

気付きを頂き知る事が出来るのです。 


物理学者の方は悩んでる時にはわからないけども

ボーっとお風呂に入っている時に

はっ!っと気づくそうです。


それには先程申したように日々の正しい生活を

する事が大切です。

物理学者であろうとスポーツ選手であろうと

画家でも音楽家であっても根は同じです 


仮に相手が酷い人でこんな奴は最低だと

目の前から消えてくれたらと願う事は

生きていると一度はあると思います。

ですが相手を変えようとしても

むしろ相手は頑なになり益々酷くなる一方です。


私達が出来る事は

日々生かされていることに感謝申し上げ

周りの人を優しく思い大切にしていく

そしてそんな心が周りの人達もあると

信じていくのです。

周りの人に仏様のように慈悲深い心があると

信じて優しい言葉をかけたり

その人の為に何か出来る事をしていく

そんな姿を見せて共に苦しみや喜びを共有して

いくと人は心を開き相手が幸せになっていきます

相手を変えるのではなく私自身が

そんな心になって善き事を繰り返していく

それが大切です。

これを根とする

信がかなり重要な事であります。

そんな日々の生活の中で個々のやるべき事を

させてもらいながら苦悩し

気づかせてもらえるものだと思います。


話しは戻りますがこの信というのが

どんな事柄であってもどんな職業であっても

どんな人種でも根であります。

この信が行動になりその行動が結果として

現れてきます。


変化をしている世の中である以上

私の心が変化すれば必ずや結果は善き変化を

起こし幸せな道に導かれるのです。 


信が全てを決めていく

それぐらい重要なことであると思います。

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