見出し画像

功徳とは/仏教

功徳とは功能福徳の略語ですが

相手の幸福の為にする行為という

意味であります。

ですので己の欲を満たす為の行為ではなく

相手の心が幸せになる事によって

己の心が満たされお互いが幸せになるものです。


人の為にする事が苦しく自分では

いられなくなると思う方もいるようですが

人の為に尽くす心こそ本当の我であります。


仏道を習うというは自己を習うなり

自己を習うというは自己を忘るるなり


と道元禅師は仰っています。


自己を忘るるなりとは身勝手な自分

自我を忘れ本当の心に目覚めると

言う意味です。


本当の心とは人様が幸せになってもらいたいと

いう慈悲の心が私達 本当の心です

その心が仏様と同じ心だと言うことなのです。


それを知ったならば
この世の真理を学び 行じてみて 感動し
その感動 喜びをみんなにも味わい
幸せになってもらいたい、知ってもらいたいと
その気持ちで教えを広めていく心が生まれます。


お釈迦様はそう願い

この世に生まれたと方便品というお経には

書かれております。


達磨大師という方がいらっしゃいますが

こんな有名なお話しがあります。


武帝という皇帝がいて仏教徒であったのですが

武帝は達磨大師に対してこんな事を言いました。


「私はこれまでに多くの仏塔を建立し

経文を写し、多くの人を僧侶にしてきた。

他にも沢山のことをした。これら仏教の為になる

行いをしてきたことに対し、どのような功徳が

あるだろうか?」


そう言い達磨大師に問いました

達磨大師はその問いに

無功徳」と仰ったと言います。


私が学んだ文献によると

無功徳とは何も功徳が無いという意味ではなく

人様の為にそれだけのことをさせてもらった事

自体が大きな功徳であり

それが人として最尊最上の大きな喜びである

達磨大師は言っていると書いてあります

ですので人の為に何かしたからといって

見返りを求めること自体が過ちなのです。


心の喜びこそ本当の喜びであり

肉体が喜ぶ事は煩悩に

餌をあげているようなものです

ですので虚しさが付き纏います。

欲とは谷が欠けると書きますので

永遠に満たされる事がありません

それでは不幸ですね。

与えて貰う前に与えていく

日々 自分の持ち場で

そんな心でいられる事 自体が幸せであり

本当の功徳ではないでしょうか。


本日も最後まで読んで頂き有難うございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?