カリスマと狂信者の関係性


カリスマというのは主体、つまりマインドが強力な個体だろう。
逆に狂信者というのは主体がより希薄な人間という事になる。
被依存者と依存者の関係だ。

これがストーカーと同じ意味を持つのは当り前。
他人のマインド(ハイヤーセルフ)を希薄な自分に取り込みたいと、
そうやって狂信者はカリスマに傾倒し、
他者のアイディンティティを取り込もうと変な行動をとるのだろう。
熱狂的なファンがカリスマを加害する事件なんかがそれだ。

小説・ミザリーで主人公の小説家をサディストが自分に取り込もうとした。
外的アイディンティティを内的アイディンティティにしようとしたと。
ファンが作家をコントロールして主体を強奪しようとした。
作家のマインドを空虚なサディストが自分に取り込もうとしたのだ。

経験上、サディストは妄想が強い、何も見えてないかのようだ。
願望と現実のリアルがつかず、自分じゃなく他人をコントロールする。
眼を瞑ったまま現実を捻じ曲げる事にリソースを割いてゆくのだ。

自分の毒親は「お前の考えてる事が判る」とニヤケながら言った。
彼等はこちらの全ての選択肢を屁理屈をこねて潰しまくり、
それにより矮小化した自分の息子を完全に支配したと思ったようだ。
上ではなく下だけを見る。
彼等は自己実現の欲求が無く、息子への支配をモチベに生きていたようだ。
子供の自発的行動の全てに血眼で横やりを入れて来た、妨害した。
主体の無い人間は他人の主体を搾取する、そういう風になっている。
故に、今の自分とは会話不能なくらい空虚なレスポンスしかない。
何も考えずに暴力で押し付けるだけだった理由がもうハッキリした。
ガリベン高学歴だが中にはまるで何も入っていなかった。
己の空虚に意味があると、逆説的に息子に証明させようとしたのだろう。
これが内弁慶の思考であり、貴族の思考、モチベーションだ。

フレネミーである底辺貴族もそうだ。
これまでさんざんスルーしていたチャンスを、人が得ようとした瞬間、
自分の所有物にしようと割り込んで来た。
いきなり軸を他人に向け、権利を持つ上位存在として乗っ取ろうとした。
序列主義者のカースト野郎は下位のポジションにタダ乗りするらしい。
いつだってリビドーのみのサディストには主体が無いという事だ。

狂信者というのは境界性人格障害そのモノであり、他人軸である。
他人の主体を己に取り込もうとする、それは結局ファッションだろう。
どこまで行ってもニセのアイディンティティでしかなく、
そういうのは対象に対する「理解」とは程遠いのだ。

宮崎勤が幼女を生贄にし祖母の遺骨を食い、セブンのビデオに依存する。
他人に軸を持つサディストは大体似た様な傾向があるハズだ。
空虚な自分に他者のハイヤーを取り込もうと悪あがきをしていると。
外部に主体を求めるのだ。

どっかで読んだが、矢沢永吉は自分のファンの行動を嫌がっていた様だ。
自分の名前を笠に着て真逆の事をして欲しくないという事だろう。

庵野秀明はエヴァンゲリオンでオタクの並ぶ観客席を映像に乗せた。
群体として他人の作品に依存するユーザー、消費者の姿だ。
庵野監督的にも、思うところアリアリだったと。

個人的にカリスマはファンに対し、狂信者にはなって欲しくないと思う。
ただ商業的には居た方が物理的なメリットがあるだけだろう。
彼等はいた方が心は満たされないものの、金はもうかるのだ。
このジレンマがあるから、表立って口に出さないだけだろう。

カリスマと狂信者。


もうS・キングがその関係性を小説化したのだから気付いてもいいハズだ。
取り込もうとはせず、対等の立場で理解する努力をすべきだという事。
ユダにはならず、全員がキリストを目指せという事だ。
ユダになれば全てを消費してしまうが、キリストになれば循環する。
相補関係を築きながら、全体が向上していけるのだ。

多分、本音ではみんなそう思ってるよ。
それを金にしようとするからおかしくなるだけだ。


そういう話。

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