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#9エネルギッシュなアジアの旅 香港・マカオ

 1996年、年末。両親を連れて、はじめての海外旅行は香港。そこは、翌年に控えた返還前の活気や熱気に溢れていた。

 現地係員は黒く薄いアタッシュケース、細身の背広、ブランド物のメガネといういでたち。これが笑ってしまうのだが、メガネには、なんと値札がついたままなのだ。空港のバスの駐車場は、到着便ごとに多くの観光客が乗り込み、活況を呈していた。よく見ると、他のツアーの添乗員で、同じく値札をつけた人がいる。これだけ高いものが買えるということを誇示するためなのか、よくわからないが、その時期はそういう人を何人か見かけた。
 
 利用したツアー会社はクラブ21。現在はもうないが、福岡からキャセイ航空に乗った人数は20名ほどだった。ちょうど円卓2つ分。

 香港で食べた青菜の塩炒めは驚きだった。グリーンの鮮やかさ、食感の良さ。シンプルながら、しみじみとおいしい。アジアの旅は、基本的に料理が口に合う。

 お昼に飲茶を食べに行ったが、そこはテーブル間をワゴンを引いたスタッフが闊歩する。焼売、肉まん等の食事系とデザート系(桃の形のおまんじゅうらしきものやカステラ風のもの)など種類がたくさんある。
 言葉が通じなくても指差して注文する方式は、便利だ。


美味しく忘れられない 飲茶

 私と同様おいしいものが大好きな友達と一緒に『もう一度香港に行きたい。コロナが収束したら行こう』と思っていたら、香港の状況が大きく変わって、胸がとても痛んだ。
 
 ツアーで一緒になった人たちの中に、福岡の建設業の社長さんと2人の社員のグループがいた。毎年、年末に社員旅行で海外に行くそうだ。

 2人の従業員の方のうち、1人はモルモットのように寡黙な人。旅行中とうとう声を聞かなかったと思う。ただニコニコと笑っておられた。もう1人は面白いこと言ってみんな笑わせる人。それで移動中のバスも賑やかになった。特別にそう面白いと言うわけではないが、母と私は笑いのツボにはまってしまった。
そこでその人は張り切り、ますます面白いことを言った。

 父は2人があんまり笑うので、だんだん不機嫌になっていった。途中で「いい加減にしろ」と言ったくらいだから、2人の笑いも度を越していたのだろう。
後から考えると、父は耳が聞こえづらくなっていたので、話題に入れず寂しかったのかもしれない。そして父の冗談にはそう笑わない2人が、ときには涙を流して笑うので面白くなかったのかもしれない。

 確かその当時マカオまで行く2泊3日のツアーで12万円ちょっと。旅行代金が安いのは、シルクの店、宝石店、お茶、雑貨屋さんを回ることで、旅行会社にバックマージンが入るためだった。中には特に香港ツアーが店めぐりばかりで不満タラタラの人たちもいたようだ。

高層ビル群のある香港島

 外国に行き、買い物をするのは至難の業。だから少々値段が高くても、日本語がある程度通じて、商品が揃っているのは好都合でもある。まとめ買いした。シルクのパジャマは軽くて、通気性も良く、長く愛用した。母の買った翡翠の指輪は石はきれい。しかし、作りがいまひとつだった。
 父も『2枚買うといくら』というポロシャツをツアーの人と組んで、購入した。

 香港島と九龍(クーロン)は全く雰囲気が違う。新しいビルが立ち並ぶ香港島。
九龍は、まさしくジャッキー・チェンの映画の世界。看板が乱立し、家と家との間に物干し竿を渡し、洗濯物を干している。

店がひしめき合う 九龍

 ジェットフェリーで、次にマカオに向かった。カジノのあるホテルがあちらこちらにあり、日が暮れかかった石畳のセナド広場に、ちょっと哀愁のある歌声が流れていた。CDを買いたいと思ったが、誰が歌っているのかわからない。

セナド広場のあたり

 マカオはポルトガルの影響を色濃く受け、エッグタルトなどのお菓子も独特だった。またマカオ料理と言うポルトガルと中国のミックスであり、エスニック料理の影響も受けた独特な料理も味わえる。私たちが泊まった旧ハイアットリージェンシーマカオでは夕食がついていなかった。私は外に出るよりホテルのダイニングが間違いないと思い、レストラン フラミンゴを選んだ。

 外国で料理を注文するのは私にとってその時が初めてだった。メインのレストランでもあるので前菜、メイン2種、スープ、デザートコーヒーまではじめに全てオーダーした。

 イタリアに行った時、後でデザートとコーヒーの注文だけは受け付けないというところもあったからだ。ところがアジアというのにこちらの予想に反して、1皿の量が非常に多い。大航海時代に各種の香辛料が入ってきたと言うマカオ料理の中で『アフリカンチキン』はぜひ食べたいと思っていたので注文したのだが、すごい量。
 

カジノがある きらびやかなマカオのホテル

 この旅に出かけて3年ほどは「あの時の夕食がおいしかったけど、量が多すぎて苦しかった」と語り草になるほどだった。戦前戦後の食糧難を経験した両親には「食べ物を残す」と言う選択肢はなかった。

本場のエッグタルト

 次に泊まった香港のホテルは土地の値段が高いため、マカオよりも部屋は狭め。朝のバイキングで食べた中華粥が、マカオの夕食で疲れたお腹にほどよく、とてもおいしかった。また隣にお菓子屋さんがあり、そこで買ったバナナケーキの味が忘れられないと母がずっとその後も言い続けていた。

 近くにはお店が多く、地元のスーパーマーケットを覗きに行ったら、私は蓮の葉に包んであるちまきを見つけた。これはよそにない最高の味だった。

 1階で食品を見ていたら、母の姿が見えなくなった。すると、なんと2階で予想される漢字を書いて、自分の欲しい赤米や黒米をゲットしている。なんというというたくましさだろう。

 スペインでは、蜂蜜を売っている人と、何かやりとりをしていた。なんとジェスチャーで「この蜂蜜は、喉に効く」「これはお腹が痛いとき舐めると、いい蜂蜜」「これは肌がきれいになる?」等、情報をゲットしていた。

 私はわずかな知識にこだわり、また人の目を気にして、尋ねることをためらってしまう。だが、母のバイタリティーはすごい。私にもその要素があるはずだ。
 今後、そんな面が私に出てくる事はちょっと楽しみでもあるが、空恐ろしい気もしている。案外、自分でそういう部分を封印してるのかもしれない。なぜなら、基本的にこの好奇心の強さは母譲りだから。

 自由で、発展の気運に包まれた香港マカオの旅だった。社長さんたちは「来年はハワイ行く」と話していた。私たちも翌年、偶然にハワイに行ったが、会えたのは、このときだけだった。

 旅行は「いつ行くか」「誰と行くか」によって大きく印象が変わるものである。また、旅行に行く条件には、資金面、時間、健康状態、家族の状況、それに国際情勢も絡んでくる。だから心が動いたときは、「そのうち、いつか行こう」はやめて、すぐに行動したほうがいいと考えている。

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