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にいがたマンガ大賞の思い出

こんにちわ、なかのです。

こないだふと気づいたんですが、拙作「のとP」が今年5周年でした。投稿作に追われて忘れてた。あと、二学期編がもうすぐ3周年…いつ終わるのかな…

さて、ここいらで「のとP」のこぼれ話を…と思ったのですが、今回はそれよりもっと前、「にいがたマンガ大賞の思い出」を語ろうと思います。初心に帰る!!


初投稿まで

私は子どもの頃からノートにマンガを描くのが趣味で、自由帳や大学ノートに描いては友人に読んで貰っていました。結構熱心な読者もおり、ヤバい時は毎週6ページくらいの漫画を発表していたと記憶しています。

中学2年生の3学期に、クラスメートから「ジャンプに投稿したら??」と背中を押されて40Pのネームを3本描いたものの、頓挫。一作を完成させるのってとんでもなく大変なことである。Undoできないアナログだったら、なおのことほんとにキツいと思う。


ちょっとだけペン入れしてたみたい。
つけペン頑張ってるなぁ。


高校では美術部を1年の1学期で退部。退部理由は「漫画が描きたかったから」
プラプラしていたところ、文化祭の日に食堂で創作部(文芸部のこと)の冊子を拾い、その冊子の最初と最後に載っていた漫画を読んですぐ入部を決めた。

ちなみに、部誌の最初に載っていた漫画を描いていた先輩は今「ゲッ○ン」で漫画を描いている。
少し前には漫画がジャ○ーズ主演でドラマ化までされていた。高校の美術の先生が絶賛するくらい、当時からハイセンスだった。(入部したのが先輩が引退後だったので面識はない)

そんなこんなで、初めて原稿用紙とペンで完成させた作品が「鼻パック」という漫画である。入部して1週間後が締め切りだったので、授業も集中できないくらいヘロヘロになったのを覚えている。

創作部では合作も含めると10本以上は漫画を描いた。(一度すごろくを描いて出したこともある)

ところが一度も投稿して評価されたことがなかった。しかし出版社の賞レースには出す勇気はなく。
じゃあどーしよう??と思って、ネットで検索して見つけたのが「にいがたマンガ大賞」だったというワケです。このとき高校2年生。

初投稿はにいがたマンガ大賞

たくさんの有名漫画家を輩出し、マンガの街と名乗る新潟。にいがたマンガ大賞の主催はガタケット(新潟のコミケ)と漫画専門学校とのこと。投稿者のほとんどは新潟県民。紀州人は当然完全アウェーである。でもそんなの関係ねぇ!
当時「デビューはちょっと考えてないかな」と思っていたので、個人的にとても敷居が低く投稿しやすそう!と感じていた。

しかし、締切が9月のなかば。ちょうど文化祭時期と被る。夏休みは文化祭の部誌に取り組む予定だったので、「部誌の原稿をにいがたに送りコピーを部誌に回すか」「2本描くか」で迷い、なんと2本描くことを決める。夏休みとはいえ、20ページ弱描くのは結構キツかった。部誌の方がお気に入り(それが「雨に撃たれば」という短編です)だったので、にいがたは少し手を抜いてしまった。


文化祭の準備終わりに自転車で郵便局へ行き、ドキドキしながら原稿を送った。

結果は準入選。
ストーリーもめちゃくちゃで、選外だろうなぁと思っていたので意外だった。参加賞で、たくさん画材をもらった。講評では「4Pの建物がスゴイッ」と描かれていたが、多くの項目が「さらに努力」だった。「雑な線はカッコよく見えるのもあるが雑は雑」「資料を見て描こうね」のコメントが刺さった…(そりゃそーですわな)

講評が残っていた!良い項目もわりとあった。ちなみに2回目の投稿時の講評は手違いで捨ててしまった模様…


しかし何より、作品集に自分の作品の1ページが載ったのは嬉しかった。

1ページ目、なんのこっちゃわからねぇ

翌年も投稿しようとペン入れまで進んでいたが、受験生ということで断念。お蔵入りに。


「コインランドリー・ワンダー」という、不思議の国のアリスのようなトンデモファンタジー。10ページくらいペン入れしてた。しかも部誌と並行して。勉強しろ。

2回目の投稿

大学では美術を専攻としながら、人生最大のスランプに。部活動一色の4年間だった。部活は音楽系。休みはほぼなし。4回生で採用試験勉強により、あまり部活に顔を出さなくなってからは少しずつリハビリをした。合宿や練習をサボってデートに行ったこともあったのはナイショ。そんな感じで、卒業間際に一本、27ページのネームを完成させた。

しかし、社会人一年目、関西でもなかなかしんどい地域に赴任し、激動の一年で漫画どころではなく。「あんなに好きだったのに、このまま漫画を描くことも無くなってしまうのだろうな」と思っていた。

二年目の春、地元に戻るも講師の声がかからず、フリーターになった。そこで急に、「卒業間際に描いた漫画をめちゃくちゃていねいに清書してにいがたにまた出してみたらどうだろう」と思いついた。やはりどこか未練があったのかもしれない。
そのうち再び講師として働くことになり、夏休みに再び契約が切れた時に作業を再開。なんとか締切ギリギリに仕上げ、仕事帰りに投函(表紙を描く予定だったけどムリだった)。目標は準入選以上だった。

その2ヶ月後、仕事帰りの電車内で、にいがたからメールが届いた。「あなたの作品を中国の青島との交流会で展示させてもらいたいんですけどいいですか?」というものだった。
いいけど、審査は…? 審査はどうなってますか!?

そしてしばらくして、またもやメールが届いた。「一般部門の最優秀賞に選ばれました!」と。
最優秀賞…???
目標が準入選以上だったので、まさかの部門のトップ賞。めちゃくちゃ飛び上がりました。


なかの、新潟へ飛ぶ

表彰式が天皇誕生日(この当時はまだ平成)にあるという。前の日は平日。式の翌日は終業式。式には審査員長の魔夜峰央先生がいらっしゃるとのこと。これは弾丸で行くっきゃないでしょう。前日の昼すぎから出発する必要があった。
というわけで、ボス(校長)に事情を説明して年休申請をした。なんだか恥ずかしかった。ボスはとても喜んでくれ、「行ってきなぁ!」と声をかけてくださった。「恥ずかしいのであまり言わないでいただきたいです」と伝えたが、瞬く間に職員全員に広められてしまった。

初めて飛行機に1人で乗ったので不安だったが、なかなか楽しかった。新潟は思っていたより都会だった。しかし当日は祝日だったので店が空いていなかった。そんな感じであまり観光はできず。

表彰式は能楽堂のようなところで催された。まず控室に入ったが、能楽堂なので何列かに置かれた座布団にみんな静かに座っていた。ずっとスマホをいじってるJKが印象的だった。交通費と賞状賞金をここで貰った(賞金と交通費はこのときの宿泊費用に消えた)。受賞者は圧倒的に女性が多かった。そして圧倒的眼鏡率だった。なんとなくわかる。

生の魔夜峰央先生はめちゃめちゃイケオジだった。
会場のロビーに原画が展示されており、表彰式後に魔夜先生と専門学校の先生が生講評(というか雑談的な感じだったけど)してくださるという。一般部門の最優秀賞なので、大賞受賞者のあとに見てもらえた。

魔夜先生に職業を聞かれて教員だと答えると、「え!公務員だったらもったいないな〜」「でも今からでもプロ目指せるよ、まだ若いし(当時は23、4でした)絵も上手いし、頑張ってね」という旨のコメントをいただいた。

とても前向きになれた。
ここからまたはじめてみようと思った瞬間である。


年が明けてから、作品集が届いた。自分の作品が全ページ、自分のプロフィールとコメントつきで掲載されていた。鉛筆で書いたセリフも、すべて写植がうたれていた。感動。
巻末の審査員の先生方のコメントで、自分の作品が特に印象に残った作品のうちの一つとして挙がっていたのがとても嬉しかった。


にいがたからのリスタート

その後、モチベーションが上がった私は「漫画をなんとかしてネットに UPできないか」「まずは4コマ漫画が描きやすいのではないか」と考え、秋からノートに描きはじめた。
年が明けてから無料のソフトをPCに入れて清書し、2016年の春に「さわやかバスケ部」がスタートした。

にいがたでの経験と一念発起がなければ、「のとP」もなかったというわけです。
すべての出会いに感謝。
最近は投稿作の制作やXのポストにピリピリして、たびたびしんどくなっていたので

のびのび楽しく描くことを忘れてしまわないように
初心に帰る…

おわり。


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