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いわさきちひろの世界・戦火のなかのこどもたち

 煩雑になった納戸を整理していると、[ ちひろBOX ]と白い文字で印字された空色の表紙の本が出て来ました。
 幅広の白い帯には「赤い毛糸帽の女の子」の絵——2004年に発行された、いわさきちひろ没後30年のメモリアルブックです。
 娘が安曇野へ旅行の折立ち寄った「ちひろ美術館」で、私への土産に買った一冊でした。

  [ちひろBOX]は一般からのリクエストによって決定した展示作品280余点に、寄せられたメッセージを添えて収録された言わば別格の一冊なのです。

 手にとってページを繰ると、ずーと昔何処かで出逢った景色ばかり。季節の行事や遊びを描いた絵の中に無邪気だった子供の頃の私がいて、貴女も貴方もいる……。
 初めて見た時、淡く滲むそれでいて華やかな色合いに、ため息をつきながら何度も見入ったものです。
 四季折々の行事や遊び、その時々の装い、草花や果実、小動物に至るまで一枚の絵が丸ごと季節で彩られた子供の世界が描かれているのです。
 子供の仕草ひとつひとつを鋭い観察力と表現力で捉えた構図は、アルバムの写真を見るよりも遥かに現実感を伴って、子供の頃の思い出を呼び醒ましてくれる気がします。

 温かい色使いと闊達な水彩の技法に感嘆しながらページをめくっていくと、それまでのファンタジックな雰囲気とはかけ離れた、およそちひろの絵とは思えない作品が目に飛び込みました。



「戦火の中の少女」と題した全く色彩のないクロッキーの様な絵です。
 窓辺で顎をもたれ、空な眼差しで外を見つめる少女の視界には、平和な日常が破壊された無惨な光景が広がっているかのようです。さらに「少年」と題した作品は横に流した鋭い瞳と、キッと真一文字にに結んだ口もとに少年の戦争に対する激しい怒りが伝わってきます。

 1975年、南北に分断されていたベトナムで起きた内戦にアメリカが加担した結果、戦火は周辺国にまで飛び火して20年に及ぶ長い苛烈な戦争になりました。その戦争の最中、対立するベトコン掃討作戦に絡んで、アメリカ兵によるソンミ村虐殺事件が起こり、ジャングルにはダイオキシンを含む大量の枯葉剤が撒かれました。その結果、次世代に下半身のつながった結合双生児などの出産が相次いだのです。ベトちゃんドクちゃんの悲劇はよく知られたところです。

「戦火のなかの子どもたち」は、当時病床にあったちひろが気力をふり絞り、命を賭けて描いたベトナム反戦のメッセージなのでした。
 今もなお資本主義・社会主義の別なく、欺瞞のもとに弱小国家への武力的・経済的侵略が罷り通っています。民族間の抗争も絶えることがありません。ちひろが生きていたらどう思ったでしょうか。

 今また読み返して気付いた事に彼女の作品はポストカードの収集にとどまって、絵本は一冊すら手にしていませんでした。この集大成の様な[ちひろBOX]で十分かと思いながらつい幸せという基準の対極にある様な「戦火のなかの子どもたち」と「あかちゃんのくるひ」の絵本二冊を取り寄せてしまいました。実物は縦30センチ,横25センチのハードカバー。絵を堪能するのに相応しい大きさでした。(赤ちゃんの……は縦25センチ)
「あかちゃんのくるひ」は、画家・葉祥明氏が「世界の肖像画のベストテンに入ってもおかしくない傑作」と絶賛した作品です。


 そして心惹かれた「戦火のなかの子どもたち」は紅色のシクラメンの花色を除けば淡いモノトーンの世界でした。添えられた言葉はほんのささやき…悲しいささやきだけです。ちひろに戦争体験があっにせよ、ベトナムの子供たちの表情を、何故ああもリアルに描けたのか——その答えは巻末の言葉にありました。

『……戦場に行かなくとも戦火の中の子ども達がどうしているのか、どうなっているのかよくわかるからです。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心までもが世界中みな同じだからです』

 残念なことに、彼女はベトナム戦争の終結を見ないまま他界しました。
 今また新たな戦争が起こり、身勝手な指導者たちによって家庭の幸せ、子供の幸せが蹂躙され、幸せへの意志と努力は価値を失っているかのようです。

    *不遜ながら文中敬称を略させて頂きました。


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