小話 ピンクレディと ブルーマルゲリータ
書きかけの原稿をカバンに詰め込んで、慌ただしく故郷に向かう年の瀬——毎年のことながら今日はこのメガロポリス脱出の特別な日だ。仕事じまいの挨拶を終えると社屋を後に足早に雑踏を抜け、並木通りに面した重厚なドアの前に佇む。
カウンターバー「クライスラー」
この店の心地よい酩酊に誘われて、週末は必ず定時で仕事を切り上げ一人立ち寄るのが習慣になっていた。
ところが帰省直前の今、何故か急に思い立って、クライスラーの分厚いドアの取手を引いた。
「お好きなお席にどうぞ」
それは一番客にだけ許される特権。けれど何故か声掛けがない。
目指すはずだったカウンター奥の端席——そこにはすでに先客が居た。
手の中のカクテルグラスには蒼穹を欺くような青い「ブルーマルガリータ」
バーテンダーの差し出す美酒に酔いしれる風もなく、ひとり淡々と至福の時を味わっている。
「こちらへ……」
自失の耳元に若いバーテンダーの声が響く。
コートと荷物を預け案内された席に着くと
「ピンクレディから始めますか?」と、馴染みのバーテンダーが既にシェイカーを振っている。
そう、いつも決めている最初の一杯。ホッと一息つける柔らかく甘い口当たりと鮮やかな色合いが大好きだから。
一口目を含もうと唇が繊細なグラスの縁に触れた瞬間、三シート離れた端席の男性がグラスを上げ会釈を送って来た。
短めに手入れされた口髭と鬢から続く顎髭がシャープな顔の輪郭包み込んでいる。
細身のボディにダークグレイのスーツジャケット。その下の白いワイシャツは襟を開き加減に、首元にはブルー地のアスコットタイを巻いて——まるでファション雑誌のモデルみたいな雰囲気だ。しばし目を奪われ、慌ててグラスを持ち上げて挨拶を返す。
あの彼の横に座れたら…偶然に始まる恋だってあるかもしれない……。
心のさざなみは妄想を掻き立てて、一人恥じらいながらカクテルグラスを呷った。
毎日が忙しすぎて、今年こそはと思った恋はまた幻で終わってしまった。青春はとっくに過ぎ去っているというのに……
いつの間にか「ブラックベルベット」が彼の手の中にあった。黒ビールにシャンパンを合わせた軽い飲み口らしく、ドライを呷るように一気に飲み干してしまった。
三杯目、彼が注文したのはしっかり酔いしれたい時のカクテル「ライラ」
私も誘われる様に「エンジェルキッス」をオーダーしていた。
聞き慣れたBGMが時を埋め,心地よい酩酊が訪れた頃,「お会計を」という声がして静かにカウンターチェアーが引かれた。
やがてコツコツという靴音と共に、私の背後をラベンダーの微かな余香が流れていった。
「おっ雪だ」
押し開いたドアの隙間から風に乗って、ひとひらの雪片が舞い込んだ。腕にかけたコートを羽織りながら、ブルーマルゲリータの彼は誰に充てるともなく言葉をかけて立ち去った。
「どうぞ良いお年を!」
年は明け私は帰省バスのシートで浅い眠りに着いていた。
( 完 )
☆皆様、昨年は温かい交流をいただき有難うございました。
そして新年おめでとう御座います。🎍
トラブル続きで年の瀬を迎え記事も中途半端のまま年を越してしましました。
いつまで続けられるか分かりませんがどうぞ宜しく。
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