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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【最終回】纏向は邪馬台国なのか?

ヤマトはその後もずっと出雲を畏れ続けました。

崇神の代では出雲の豪族・出雲振根(ふるね)の宝剣を取り上げて、最終的には殺してしまいました(「日本書紀」巻第5)。神宝を取り上げるとは、それを信奉する一族の力を奪うという意味があるそうです。
また6世紀に、ようやく出雲市に初めてヤマト型前方後円墳ができます。つまりこのときようやくヤマト政権が出雲(西部)を勢力下に納めたわけですが、出雲を併合する代償としてヤマトは、当時ありえないくらいの資金と労働と土木技術を注ぎ込んで、敗れた側に立派な神殿「出雲大社」を建造します。
これが神話でいうところの「国譲り」です。

前代未聞の破格な待遇と言えるでしょう。

さらに、712年に作られた古事記では、なんと全体の3分の1を「出雲神話」に当てています。
それも、畏怖とリスペクトがあったからに他なりません。
以前私は、大国であり先輩格である出雲にヤマトは敬意を払って厚遇してたのかと思っていましたが、いいえ、敬意だけではなく、畏怖があったからこそと考えれば一連のヤマトの行動は理解できます。

古代出雲大社

一方、吉備勢力はその後どうなったのでしょうか?
大和へ渡った主要な吉備勢力はそのままヤマト政権の中核となり、故郷・吉備国としばらく蜜月関係を築きます。
3世紀末吉備は、岡山市に先述した箸墓古墳の2分の1サイズの全長138mの浦間茶臼山古墳を作りました。
5世紀になっても、ヤマトで超巨大古墳・誉田山古墳425mが作られると、吉備でも巨大な造山古墳350mが 作られ(この時点で日本第1位と第2位のサイズ)、次にヤマトで大仙陵古墳486mが作られると吉備でも作山古墳282mができる。
このように吉備とヤマトは常に兄弟関係にありました。
しかし次第にほころびが見え、5世紀後半、雄略天皇の時「吉備の反乱」がおこったのを境に、蜜月関係は 解消。このあたりで吉備王朝は完全にヤマト政権に吸収されてしまったようです。

こうして出雲と吉備と九州。彼らの文化が結集した形で古代ヤマト政権は生まれました。

吉備・造山古墳(当時は全国第2位の規模。現在でも4位)


さてそこで、お気づきかもしれませんが、
この検証に「邪馬台国」「卑弥呼」は一言も出ませんでした。 
しかし近年、専門家の間では纏向遺跡が邪馬台国であることは確証済み、という驚くべき風潮が広がっています。
本当に纏向は邪馬台国でしょうか?
では、この検証文の最後に少しだけ触れてみましょう。


邪馬台国畿内説を唱える人も、邪馬台国東遷説を唱える人も、大和地方に邪馬台国があるとする最大の根拠 は「纏向遺跡の存在」と「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」という点でしょう。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼が死んだ年は247年。国立歴史民俗博物館研究が発表した「箸墓古墳」の推定築造年とほぼ一致します。
さらに纏向遺跡が誕生したのは2世紀末と推測でき、卑弥呼が共立された年代も2世紀後半ですから、その点でも一致します。
とすれば、「倭国の乱」による2世紀後半の混乱期に、吉備王、出雲王、伊勢王、九州王、東海王など各国の王たちが話し合って、最強の巫女である卑弥呼を共立し、これから築く都・纏向に新たなクニをつくろうとしたのではないかと。
そこで時期も合致している。さらにかつてない大王の宮殿が纏向から発見されている。したがって「邪馬台国=纏向」であろう、と。
たしかにその説は合理的です。

しかし一方、
同じく倭人伝に書かれた邪馬台国の描写には、厳重な城柵で囲まれ宮殿を守っているとありますが、 纏向に城柵遺構は出ていません。防御機能の環濠も確認されていません。
銅鏡(舶載鏡)文化がそのころを皮切りに九州から畿内へ拠点を移しているので、卑弥呼がいる纏向宮殿遺構から銅鏡が多数出土していいはずなのに、出ていません。
その代わり、卑弥呼が呪術で使ったかもしれない桃が2769個出土しました。
この発見でマスコミが「卑弥呼が使った痕跡」と大々的に騒ぎ出しましたが、なんというか吉備の城東遺跡(倉敷市)からは9608個、津寺遺跡(岡山市)からは2415個見つかっていまして、これは卑弥呼云々というより、吉備と天皇家の呪術が強い関連を示す事例と考えるべきでありましょう。

マスコミの根拠なき”邪馬台国合戦”

また、卑弥呼と魏は交流を持ち大量の下賜品を賜ったわけです。纏向遺跡の宮殿付近からもそれら大陸や朝鮮由来の遺物が 出土していいはずですが、これも皆無。
なんと九州系の土器さえわずかしか出ません。
九州系のものが纏向から出ないということは、九州は都の建設当時から非協力的。一大率を置いて、太いパイプで結ばれていたはずの伊都国(福岡県糸島市)との交流の痕跡はない、と解釈できます。

要するに、時系列では畿内説有利なのでロマンはありますが、少なくとも現実的には邪馬台国纏向説は成立しないと考えます。

私は著書のなかで、イワレビコ(仮称)という一族が九州内での「倭国の乱」を避け、東へ回避した”神武 天皇東避説”を唱えています。

いずれにせよわかりやすく言えば、九州諸国は当初、纏向建設など興味を持たなかった。九州内の混乱を鎮めるのに精一杯だったのではないかと考えています。
九州内ではそのとき卑弥呼が共立され、畿内ではイワレビコが纏向建設に参画した。2世紀後半の気候変動が、人々を同時に動かし歴史を作った、そう解釈すればすべて納得がいくと思います。

ヤマトはむしろ出雲の霊的な権威を畏れていました。
で、いつまた祟りがおこるかわからない。だから丁重に お祀りをする。
文献上「祟り」という単語は平安時代の書物から登場しますが、その概念はすでに神話の時代とされる日本古来からつきまとっていたのです。

こうしてヤマト政権は生まれ、幾多の困難と対峙しながら、日本全土の統一に乗り出すのです。

                                  END

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