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源平の時代うそホント【2】〜歴史ナナメ解説〜

4)以仁王 でかい爪痕を残す

後白河の子・以仁王も、清盛の横暴さの犠牲者になりました。
翌年の1180年、たまりかねて彼は平氏追悼の「令旨」を出します。
以仁王がそれまでおとなしくしていたのは、自分は現天皇の弟なので
「もしかしたら次期天皇は自分かも?」
と淡い期待があったから。ところが、自分の領地を召し上げられただけでなく、清盛がヨチヨチ歩きの自分の孫を天皇にしてしまったから、
「なんだよ、赤ん坊やんか!バカやろー」とブチキレたわけです。

以仁王の作戦は、反平氏派である仏教勢力(園城寺・興福寺・微妙なのは延暦寺)に協力を取りつけ、僧兵らともに六波羅に火をつけ、慌てて出てきた清盛を討つと言うものだったようです。
が、それがバレて園城寺に逃げ込み、さらに延暦寺からは静観されてしまい、奈良の興福寺へ逃げる途中で討たれてしまいます。
しかし、この「以仁王の反乱」は、全国の源氏のみならず仏教勢力にも、平氏恐るものでないぞ!というでっかい爪痕を残していくのです。

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5)巴御前はいなかった

その頃、伊豆で島流しに遭っていた源頼朝
平氏系の豪族から監視を受けながら、おとなしく写経をして暮らしていました。
そこに「令旨」が来ましたが、どうせ負けると思ったのか、なかなか動こうとしなかったようです。

一方、いち早く反応したのが木曽の豪族に育てられた源義仲
破竹の勢いで、信州〜北陸の平氏をやっつけ京に登るのですが、
ここで義仲と行動を共にする男勝りの女将・巴御前
この人は架空の人物だったというのが最近の研究です。
越後のある御前(別人)が、敵に大損害を与えたという記録があり、この時代、女でも差別なく戰の最前線で戦うんだ、という背景から生まれたのが巴御前だったようです。
架空なのがちょっと残念な気もしますね。

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さらに義仲には、倶利伽羅(くりから)峠の戦いで多数の牛の角に松明をつけて突進する、というエピソードがありますが、これも架空。中国の故事に同様のがあってそれになぞらえたものだそうです。

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6)なぜ羽音に逃げ惑う?

伊豆では、重い腰をあげ、ようやく平氏追討に立ち上がった頼朝。
しかし案の定、平氏側・相模国の大庭景親に大敗し、残りたった5騎で逃げ回り、命からがら安房国までたどり着きます。しかし、そこで千葉氏・三浦氏・上総氏などが参戦、いきなり5万騎の大軍に膨れ上がるそうです(これは本当の話)。

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で、平氏と源氏の最初の全面対決となった「富士川の戦い」。(1180年11月)
ここで有名なのは、『戦う前夜はチョー余裕で、ドンチャン騒ぎしてた平氏が、水鳥の羽音を敵襲と勘違いし大軍が散り散りになり逃げていった』。
平氏のひ弱さを示す象徴的な話です。

でも、真実はそうでもなく、
この年から西国では旱魃でとんでもない飢饉が襲い、兵糧米も不足。ふらふらになっている平氏軍4000騎に、甲斐源氏(武田)も襲ってくると知り、兵の半数の2000騎はすでに逃亡してしまっていたそうです。(もともと駆り出された農民なので)。
そこで仕方なく、総大将の平維盛は撤退をしようとしてたところ、あの羽音が響き、偶然近くの民家に火事も起こり、敵襲と勘違いし逃げてったと。
そんな事情があったのですが、寄せ集めのひ弱な軍であったことは間違いはなかったようです。

そしてこの時、富士川(厳密には黄瀬川)のほとりで、
日本史最大のヒーローのひとり・源義経が、頼朝に会いに来ます。
感動の再会です。異母兄弟と言えど、平氏は同じ父の仇。
強い絆で打倒平氏を共に戦うのだ!と思いきや、
どうも最初からこの二人、ボタンの掛け違いがあったようです。

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7)なぜ清盛は南都焼き討ちをした?

さて、京では平氏独裁政権のもと、
「以仁王の反乱」の罰として、加担した圓城寺に厳しい処分が加えられます。
興福寺は以仁王への“加担未遂“に終わったため、特に目立った処分はなかったのですが、仏教勢力とは一発即発の状態に変わりありませんでした。
で、清盛はこれ以上敵を作りたくなかったのでしょう。福原から京に戻ってきたとき、興福寺と平和的に話し合おうと使者を送りました。
(とはいえ軽武装の兵500人も同行したのですが)

でもそこで、過剰感応してやりすぎちゃった興福寺。
60人の平氏使者を斬首し、猿沢池に晒すという凶行に出ます。
それにキレた清盛(当然ですが)。
息子・重衡に命じて「悪僧どもの坊舎を焼き討ちにせいや〜」と。
夜だったもので、付近の民家も焼いて灯りとし、命令された通り重衡は火を放ったのです。しかしなんと運の悪いことにその日は強風が吹いていました。
坊舎だけのつもりがあっという間に燃え広がり、興福寺のみならず隣の東大寺など奈良の仏教寺院に次々と延焼し、あの奈良の大仏までも焼け落ちてしまったんです。
これが清盛の悪行として名高い「南都焼き討ち」です。(1181年1月)

奈良の寺院に行って「鎌倉時代の再建」という説明文がやたら目につくのは、このときみんな焼けてしまったから。
清盛も重衡も「なんてことをしてしまったんだ」と自らの愚行に頭を抱えたでしょうね。

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