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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【2】殺された109体の謎

【2】殺された109体の謎

さて前項では、出雲と吉備にクニができ、互いに同盟を組む関係になったと話しました。
そんな中、2世紀後半になると地球規模で天候が不安定となり寒冷化が進みます。
それに加え、日照りや洪水が毎年繰り返すようになり、作物は実らず、人々は苦しむようになりました。

一番上のグラフ(農業農村整備情報総合センター)をご覧ください。海面温度からみた3000年間の平均気温ですが、2世紀にはかつてない急激な寒冷化を示しています。また次の夏季降水量を表したグラフ(総合地球環境学研究所)では、やはり2世紀には数年・数十年間にわたった多雨期と乾燥期を引き起こしています。この劇的な気候の変化の中で日常の暮らしは困難。生きていくために人々には大きな変革が必要でした。

中国でも同様で、ついに184年、飢えと悪政に耐えかねた農民たちが反乱を起こします。
黄巾(こうきん)の乱」です。
三国志の遠因ともなったこの大乱によって、国土は大いに乱れ、おそらく多くの民は戦乱を避けるため海を渡ったことでしょう。その中の何割かは日本海沿いの北部九州や山陰に漂着。出雲地方は難民に分け与える食料もなく、さらなる困窮を深めます。


出雲国の「青谷上寺地遺跡(鳥取県)」で見つかった109体の人骨は、ちょうどこの頃に殺傷されたものです。鉄鏃で突き刺された人骨など、みな1箇所に捨てられた状態で見つかりました。

2018年、国立歴史民俗博物館がこれら人骨の核DNA・ミトコンドリアDNAを調査・鑑定した結果、彼らは日本古来から住む縄文系の父と、中国や朝鮮半島出身の母をもつ混血だったことがわかってきました。おおかたの予想に反し、中国朝鮮の各地からバラバラにやってきた渡来人の子ら。

一般に、「倭国の乱」と結びつけて考える専門家もいますが、殺された者たちは日本に来てさほど経ってない点、1箇所にまとめられ葬られている点などから、クニとクニの戦いの跡と考えるには違和感があります。
彼らを思うにつけ、食糧を求め渡来した難民、または生口(奴隷)として日本へ連れて来させられた者で、現地人との間で食料のいさかいが起き、悲劇となった可能性が高いと私は考えます。殺戮された者の中に小さな幼児もいました。

ちなみにこの事件以降、青谷上寺地遺跡は衰退の一途をたどり、やがて古墳時代初期には忽然と消えてしまいます。
「もう、ここにはいられない…」そう思って集落を去った青谷の民も多くいたことでしょう。
彼らは一体どこへ行ったのでしょうか?
実は、彼らの移動こそが、次なる時代の幕開けとなった可能性が高いのです。
                             (つづく)

全10回
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)なぜ古墳から鏡が?
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?

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