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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【1】古代王は誰か

【1】古代王は誰か

昔々、弥生時代末期の2世紀頃。
奈良盆地では広大な湿地帯が広がっていました。時折大雨になると汽水湖の水が溢れ、あたり一面を覆い隠します。
もちろん天皇家の住まいはありません。
それどころか、天皇そのものがいなかった時代です。

ここでは銅鐸を使って農耕儀礼を行うムラが散在していました。
ムラの周囲には環濠が囲みます。環濠は一般に防御する機能と言われていますが、ここはそれ以外に、ムラを水害から守る排水機能を持たせるため掘られていたようです。
その中で一番大きな集落は唐古鍵遺跡。リーダー的なこのムラでも何度も洪水に見舞われ水没しており、なかなかムラからクニへ発展しずらい、そんな土地でした。

弥生時代末期の古代奈良湖推定図(淡い色は湿地)

一方、九州各地や吉備、出雲ではすでにクニが生まれていました。
銅だけでなく鉄を手にし、武器や農具をあやつり、大きな墳丘墓を作る土木技術も発達していました。

特に吉備国は、岡山県全域と兵庫県・広島県・香川県一部を含むクニで、優れた製鉄技術集団が国力を高めていました。
独自の土器・器台で、首長と共同体が盛大な飲食儀礼を催していたようです。
巨石を並べた楯築遺跡は全長72メートル。この時代では最大の墳丘墓です。
吉備の墳丘墓は「双方中円墳」と呼ばれています。

出雲国は、島根県を中心に鳥取県~山口県に広がる大国。
もともと青銅器大国であったのですが、1世紀ころ銅鐸・銅矛祭祀を捨て、鉄器文化をとりいれた墳墓祭祀に切り替えたようです。
朝鮮半島との交易が盛んで、新羅から鉄を取り入れ、製鉄と土木に秀でた海洋国家でありました。一説では民間崇拝の蛇神と斐伊川が結びつき、水神を信仰したと言われています。
四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる独特なかたちの墳墓を築造していました。

双方中円墳と四隅突出型墳丘墓

この吉備と出雲の、双方中円墳と四隅突出型墳丘墓。
それぞれ形は違いますが、墳丘の上に棺を収めて祭祀を行うやり方は大変似ており、また吉備で作った「特殊器台」と呼ばれる巨大な円筒の焼き物は、出雲でも使われていました。他にも埋葬方法や剣と勾玉を添えた副葬品など、共通点はいくつもあり、
近年の考古学上の研究で、吉備と出雲はお互い同盟関係にあったことがわかってきました。

そしてその形を見れば明らかに、これから作られるヤマトでの前方後円墳の原型でもありました。
例えば、双方中円墳の方形の片方を取れば、そのまま前方後円墳の形になりますし、四隅突出型墳墓の側面を固めて高く積み上げる葺石方式は、そのまま前方後円墳に採用されました。また、吉備で作られた特殊器台も前方後円墳に採用、のちに円筒埴輪として発展します。

このように2世紀の日本、2つの王権は争うこともなく成立していました。
ところが…その後あることが起きて、2つの王朝はまったく違う道を歩むことになるのです。                         (つづく)

全10回
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)なぜ古墳から鏡が?
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?

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