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レールを外れてから・・・

生きていく中では周りのと関係性って大事だと思います。

本来、自分が周りから外れていないと感じられていれば、自分の存在なんて特に意識することもないのかも知れません。

しかし、時に、周りから外れてしまうことってあると思います。

子供の頃、学生時代、社会人になってから・・・どっかのタイミングで周りから外れてしまうことがあります。

僕の場合、そのタイミングは大学卒業時に訪れました。
それまでは、ある意味、周りと同化していて、自然とレールを進んでいた、周りと一緒に動いていた感覚がありました。

しかし、大学卒業と同時につまり社会人のスタート時に大きく、周りから外れてしまったのです。

就職に失敗し、仕事が無いという状態からスタートをしました。

東京で新社会人のスタートを切るのですが、フリーターとしてその一歩を歩み始めたのです。

それまでは大学生という、わかりやすい社会的な存在。
しかし、フリーターというのはそれがありません。
完全に宙ぶらりん。

自分が置かれれいる位置がわからない、むしろ無いのです。

それでも、生活の為に仕事をし、何らかの社会的役割を担っていました。
毎月、やっとの生活で食い繋いでいく。そんな日々がありました。

その頃のことを思い返してみると、自分を定義つけることに一生懸命だったと思います。何しろ外から自分を定義つけてくれないのですから。

なので、必然的な自分とは何か?という哲学的な問いに向き合わざるを得なくなりました。

これが、レールから外れたことによる副産物だったのです

外が自分を見てくれないのであれば、内が自分を見る他ない。

そういう状態に置かれていたんだと、今になって思います。

なぜ、このようなことを思い出したかというと、関西外国語大学准教授・戸谷洋志さんのお話をYouTubeで聞いたからです。

この中でドイツ人の哲学者ハイデガーが書いた本「存在と時間」について言及されています。
この本を読んだことはないですが、僕がずっと興味を持っている分野「ヌーソロジー」という思想体系ではよく出てくる哲学者です。

このYouTubeのタイトルには「交換可能な人生を抜け出すには?」とあります。
交換可能なのは普通だからであり、普通を求める限り、交換可能な人生になってしまう。
考えてみたら、当たり前のロジックです。

おそらくハイデガーもそういう人間の在り方に苦言と呈していたのではないかと思います。
それが、近代という時代が抱えた、存在論的課題。

普通に苦しむ社会構造が出来上がっていったというです。

精神的な意味合いで言えば、苦しみの元はここに還元されるのだと思います。

であれば、そこから抜け出すには・・・?

それがレールを外れてみるということだったのかな?と今になって思います。

交換可能な人生を外れることで、不安を感じることはもちろんありますが、存在論的、精神的な自分を確立するには避けては通れないのかなと思います。

交換することが出来ない、唯一無二の自分を目覚めさせることが出来たら・・・
そういうことを求めることが決して、わがままではなく、共通認識として語られるようになって来ました。

一人一人がそこに目覚めることが出来たら、近代が抱えてた存在論的課題を乗り越えることが出来ると思います。

この問題は一人の問題ではありません。

現代人が共有している集合意識の問題でもあります。

だから、自分一人が変わったからって、世の中は変わらない、ということではなく、自分一人の意識が世界と大きな繋がりを持っているという認識で、できる事から始めてみるといいと思います。

新しい時代を切り開くのは、きっとそういう人たち。

時代は大きく変わり始めている。

そんなことを考えるきっかけになる、戸谷洋志さんのお話でした。