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他者化とは?

先日、個人セッションをしてもらったイデアサイコロジー提唱者の春井星乃さんがの人間の精神状態、心の段階を表す状態として概念化されている「他者化」という言葉がある。


「個人が他者化してしまう」というような文脈で使われることが多い。
初め聞いた時はピンと来なかったこの概念。
しかし、よくよくこの状態のことを考えると、わたしたちの周りに既に当たり前に、はびこっているありふれた精神状態であることに気が付いた。

イデアサイコロジーでは、90年代までは「心の病気」として扱われていた、精神の問題が2000年代くらいになって「他者化」という状態に変わりつつあるというような言われ方もされている。
「心の病気」と言えばある程度分かりやすく、その当事者も周りも同じような感覚でその状態に関わることが出来る。
しかし、「他者化」は厄介だ。
それは他者化している本人は自分が他者化しているとは思ってもいないから。

このことを説明するには心理学で言われる自我同一性(アイデンティティ)の確立について理解しておく必要がある。
自我同一性はこれが私だという感覚、これからも、これまでも変わらない私という感覚。「一貫した自分」のこと。
心理学者マーシャはこの自我同一性の確立こそが13歳から14歳以降の課題だと考え、その為に「危機」と「傾倒」の2つが必要と考えた。

「危機」とは、それまで当たり前だと感じて取り入れていた価値観に対して迷いを感じ、自分はこれでいいのかと考え始めること。
「傾倒」とは、自分で選択したある特定の事柄に対し、興味関心を持ち、積極的に関わること。
そして、マーシャはこの「危機」と「傾倒」の組み合わせで、自我同一性を確立するまでには4つの段階があるとした。

「自我同一性達成」
「モラトリアム」
「早期完了」
「自我同一性拡散」
この4段階。
※(イデアサイコロジーより引用)


一番上の自我同一性達成は危機も傾倒も両方経験している。
一度自分にとって当たり前だったものから離れ、自分の内発的な動機と向き合い、その延長に再度、自我を作り上げた状態だ。
例えて言うと、一度「親の価値観」から離れ、自分自身と向き合い、本当の自分らしさを手に入れるというような状態かも知れない。
これが13歳から14歳ころ始まるとすると、一番身近な例では「恋愛」が思い浮かぶ。
誰か他人を好きになり、それにより、それまでとは違う価値観を取り入れていくこと。親とは違う愛の形を求め、求められること。

この経験が「自我同一性達成」に至る分かりやすい心の動きかも知れない。

ではその下「モラトリアム」
これは危機のみ経験している状態。
何かが違うことは分かっているけど、どう「傾倒」したら良いのか分からない。それを探している状態。
これまた恋愛に例えると、好きな人はいるけど、その気持ちを自分でどう扱ったらいいのか分からない。モヤモヤしている感じ。
モラトリアムはよく大学生などを指して言われたりもする。
モラトリアム期。
猶予期間的な意味もある。
このままではいけないと分かっているけど、どうしたらいいのか?迷いの期間。
こういう状態を経験したことがある人は多いと思う。それは恋愛に限らず、何かをしなければと思うけど、何をしたらいいのか分からない。
そういう状態。

そしてその下、「早期完了」
これは「傾倒」のみ経験している状態。本来は危機を迎えてから、傾倒を発動させるというのが達成への道順だが、危機の前に傾倒を経験してしまってる。
これは要は親の価値観をそのまま傾倒してしまっているということだ。
人によってはそれの何が悪い?と思われるかもしれない。
または、「親の影響なんて受けていない」もっと違うものを目指しているという状態もあると思う。
でもそれも実は無意識の親の影響が反映されたものであって、原型は親なのだ。

それが例えば、国や政治的思想・家族での立場・仕事・専門知識・スピリチュアル的思想などに反映される。
ここに傾倒してしまい、疑いを持つことが無いような状態、それが「早期完了」。
この状態と「他者化」が密接に関わっていると言われている。

そう考えて自分自身を振り返ったとき「他者化」していたな、と思う時期はある。
何か超越的な思想や立場を得て、それを自信に生きていこうとしていた。
それが僕の場合、音楽だったり、あるアーティストだったりした時期もある。
若い頃は誰しもそういうものかも知れない。


しかし、今現在の他者化の問題は、日本社会全体を覆うムード。
そして、その元は個人個人における他者化。
中々、危機を経験する機会が少ない上に、傾倒の影響を受ける場面は多い。傾倒の影響はネットを通して、バンバンやってくる。
無意識の自我を揺さぶる、情報や刺激が際限なく降り続く。


現代人は恐らく、早々に傾倒させられる状態に置かれている。
この傾倒はさせられているので、自発的なものでは無い。
だから、本人はそこに熱を上げているつもりだけど、何かが違う?というような違和感も覚える。
でも、そこにいた方が安心。何だか、やっている気がする。やれている気がする。本当の自分なんて見ない方が効率的。そうして突っ走る。


何だか自動機械に乗せられているように走らされ、それを充実感と呼んでいる感じ。そう呼ぶしかない。

それが「他者化」した社会の姿なのだと思う。
そこにどっかのタイミングで気が付くか、何かのきっかけでそれが機能しなくなるか、そういったことから、気づいていくのだけれど、それまではなかなかしんどい。

この他者化からの脱却が、現代日本の大きなテーマであると僕は思っている。
あまりに他者化した人が多いから、それに違和感を抱けない。
他者化こそ、ゴールだと思い描いているような若者の姿を見ることもある。


いつから、こんな世の中になってしまったんだろう…と、ちょっと嘆きたくもなるけど、そこに自分も加担していたんだと思う。

では、そうすれば他者化から抜け出せるのか・・・?

自分を見つめる。

もう、これしかない。

こんなことをすると一時的には生産性は下がる。コスパも悪い。
でも、他者化の延長には幸せは無い。
それどころか自分からどんどん遠ざかる。

昨年から続く、コロナ禍の世相。
外、外と意識が向いていた時代が、内へとシフトチェンジしているように感じる。

ここらで方向転換して、きちっと自我同一性を達成するような方向へ進んでいけると良いと思う。