収束しようとするAI、拡張しようとする人間
情報は最適化されている。
特に情報がIT化されるようになってからは、最適化されるものを情報と呼んでいるような感もある。
情報はテクノロジーに一度回収され、それが再度メタな情報として排出される。
そして、それをまた受け取り、情報として排出する。
そういう情報のサイクルが最適化を可能にし、ある意味一元的な概念を作り上げることになった。
それが知能のように働いているのが人工知能、AI。
だから、AIは最適化の呼吸を常にしている。
吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返し、最大公約数を常に刷新しながら発展していく。
そういう最適化のシステムをAIが担ってくれている。
だから、私たちがこれまで、一般的には・・・とか常識的には・・・とか、なんとなく共有していた感覚が可視化され、わかりやすくなった。
この流れは止まりそうにないから、それはそれとして一度受け入れるしかない。
色々なことの標準が明文化され、共有され、世の中に出回る。
それまでは例えば、イデオロギー的なことはその思想のアイコン的な人物がいたり、属人的だったが、AIの時代にはそれが無い。
だから、反対をしようにも誰に反旗を翻していいかわからない。
そういう時代に向かっている。
全てが最適化していく時代においては、社会は最大公約数を提示してくる。
どんどん数が大きくなっても(多様化しても)、それを構成している、共通の素数(基本原理)を探していこうという働きは、元型を留めておきたいという力にも見える。
となると、その反対、最小公倍数はどうなるのか?
どんどん数が大きくなり(多様化)し、それを掛け合わせた結果(分けて細かくするのではなく、拡張してみる)の最小値を探していこうという働きは新たな元型を生み出したいという働きにも見える。
この二つの作用、留める側と拡張する側。
最大公約数と最小公倍数。
その、受け持ちがはっきりしてくるのがこれからの時代。
最大公約数はAI、最小公倍数は人間、という構造になるだろう。
収束しようとするA I
拡張しようとする人間
そんな構図が見えてきた。
何だかこれが面白い。
AIはそれ独自で考えているように見えてしまうから、外部の物のように思えるけど、元々は人間から出た情報を元にしている。
だから、ある意味それも私たちの存在。
最大公約数を求めてく働きはAIに任せて、人間は最小公倍数のことを考えておけばいいのかなと思う。
最小の公倍数を意識し合うことを忘れなければ、拡張しながらも、共有可能なのではないか?
そんなことを考えた。
AIが仕事を奪うとか、AIに使われるとか、そんな文脈で語られることも多いこの先の未来。
しかし、こうしてAIの働きがはっきり共通の認識としてわかってくると、人間がなすべきことがわかってくる。
そういう意味ではAIは大事なものに気付かせてくれる優しい存在なのかも知れない。