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「実感ない金沢着」2023/4/20-22

1週間ほど前に書いたものを、下書きのまま放置していた。少し加筆して急いで出さないと、この日記の魂の鮮度が落ちている気がする!!急げえ〜!

4/20〜22にかけて、撮影のアシスタントで金沢にいてた。僕が金沢から呼ばれた訳でも、金沢まで運転したわけでもない(免許未取得)ので、あまり実感は湧かなかった。

プロダクトの撮影なので、撮影に金沢らしさは無いし、海鮮は美味かったが海は広いので金沢だあ感はいまいち無かった。
唯一金沢だなあと感じたのは、深夜に散歩している時だった。
金沢のシンボルのような隈研吾のあれや21美のあれたちを見たり、しつこいくらいの「金澤〇〇」や「北國〇〇」の文字たちを見たことで何となく遠くに来たことを実感できた。

深夜、街を見ることで色んなことを考えた。

金沢は小京都と言われているらしい。小さな京都ぽい所、ということなのだろうと思っていた初日だったが、2日目の散歩中、規模感的な「小」というよりかは、子ども的な「小」なのかなとも思った。
勿論えぐい歴史の積層がある金沢さんが子どもな訳はないのだけれど、現代の上塗りの未成熟さみたいなのが町から見てとれた。
京都は、いっぱいの歴史を現代にも活かすように汚すように現代的にデザインすることがかなり修了しているように思う。観光したことないから知らんけど、なんとなく現代と歴史が良い感じに溶け混ざりきってる感を感じる。
それに比べて金沢は、ところどころに混ざりきれてなく半端なような、セパレートされているような少しのチグハグ感を感じた。土地の使い方とか、建造物の熟し方とか自販機の配置とかミスドの密集率とか。誰かがブランディングと称して新たな風を吹かしたのかなあ、みたいな今っぽいロゴが点在していたり、必死に電子マネーが使えることをアピールしている店前の幟やステッカーがあったり。
でもそれは、意外と金沢だけじゃなくて、都市部以外の県たちはそんな感じなのかもしれない。
現代についていくのは、自走できる人間でもとても大変なのだから、人の力を借りないと変化できない町は、もっともっと大変だろう。そんな町が僕は大好きです。

深夜の散歩ではそんなことをゆるゆると考えていた。

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