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加藤秀俊『ホノルルの街かどから』①住まい、学校、はだし、ハダカ、ププ

ハワイは、日本とアメリカ本土の中間地点にある。だから、これまで20年間、ふたつの国を往復するたびにハワイに寄って2、3日を休養のために過ごした。1970年からハワイに縁ができて、毎年2、3カ月ハワイ大学で仕事をするようになった。暮らしてみると快適だ。

とりわけ、ハワイがアメリカの1州でありながら、文化的には太平洋文化圏の一部として健在であることが、楽しかった。ポリネシアの人々の生き方をしっかり勉強してみよう、と思った。そんなわけで1972年夏から1年間はフル・タイムでハワイで生活することにした。家族そろっての海外生活は、4回目だ。

気がかりなのは子供たちのこと。上は13歳、下は10歳。ハワイの学校に上手に適応できるなら、彼らの人生に大きなプラスになるだろうが、不適応をおこしてしまったら困ったことになる。そして学校の近くに、いい家が見つかるかどうか。ハワイの住宅事情は、アメリカ本土を基準にすると、かなり厳しい。

加藤秀俊『ホノルルの街かどから』(1979年 中公文庫版)

いい家が先だ、と思った。良い環境の住宅地に住まいを見つけさえすれば、それが小・中学校の学区を形成しているわけだから、学校が劣悪であろうはずがない。新聞広告の中から少なくとも3寝室のある独立家屋を選び、電話で尋ねて3軒に絞り、実際に見に行った。

ハワイの不動産の斡旋業者は、例外なく中年の主婦だった。これらの婦人たちはパートタイムで2~3の物件を担当している。電話で連絡すると、約束の時間に現地で待っていた。建築にセミプロ的な関心をもっている、しっかりした生活経験のある主婦が不動産のブローカーをするのは、気が利いたやり方だ。

3軒目のドアを開けた途端、家族は嘆声をあげた。間取りは凹字型。真ん中のくぼんだ部分が、庭と内部空間との中間地帯として上手に設計されている。ハワイ語のラナイ。仮設の屋根の下に籐家具が置いてあり、気楽な雰囲気。庭は広く、真ん中にプールがあり、周りに色鮮やかな熱帯植物が植えられている。

真ん中のくぼんだ部分が、庭と内部空間との中間地帯として上手に設計されている。

この家を借りるのは、ちょっとした決断であった。ハワイの不動産の値段は、アメリカ本土の2、3倍。家賃は収入の1/4が目安だが、ここの家賃は大学でもらう月給から税金を引いた手取り金額の半分。生活の破綻は目に見えている。しかし、待てよ、と私は思った。

ハワイの物価はアメリカ本土に比べるとかなり高い。だが、衣料費や光熱費はそんなにかからない。書店はないから本を買う必要もない。おいしいものを食べて、スポーツで身体を鍛えて、勉強して、簡素に健康に生活するなら、楽しくやっていけるにちがいない。そのためにも、住居は多少贅沢なほうが良い。

この家の持ち主は、アメリカの通信社のかつてのホノルル支局長で、3年前からオーストラリアに転勤。これから任地を転々とするかもしれないが、定年退職したら、この家で老後を過ごすつもりだ。シドニーから返送されてきた契約書に「週1回、家の周囲の芝生に十分に散水すること」と書き加えてあった。

家の庭をしらべたらバナナの木もあった。

現代アメリカの学校に子供たちを入れることに神経質になるのは、子供たちを麻薬から守りたいからだ。麻薬はあっという間に高校生の間に広がり、中学校にも入りこんでしまった。しっかりした両親が、良い家庭を営んでいても、子供が麻薬の虜になるのは珍しくない。

麻薬事件のない学校に子供を入れることが、親としての最低の義務だと考えていた。ホノルルの知り合いに問い合わせたところ、上の子の行くカイムキ中学校は、評判の良い学校で重大な問題をおこしたことはない。下の子の行くカハラ小学校も、いろいろと実験的成果の上がっている良い学校だと教えられた。

小学校に入学手続に行くと、校長先生はにこやかに笑い、「しばらくすれば馴れますよ」と言って子供の頭を撫でてくれた。中学では窓口で、何年生に入るつもりかと尋ねられた。ここでは年齢に関係なく能力さえあれば上級に進むことができる。教務担当の先生と面接すると、娘むけの時間表を作ってくれた。

おちつくことを決めたカハラの住宅地

ハワイの生活には、家に入るときは入口でクツを脱ぎ、家の中では、はだしになる、という習慣がある。日本では当たり前だが、アメリカ化した生活習慣の中に組み込まれているのを見ると、最初のうちは、大変に不思議な感動を覚えるのだ。いったい、どういうわけか。

まず第一にポリネシアの土着文化がある。人類の多くは、どこでも、はだしで暮らしていた。ポリネシアの人たちも、サンゴやトゲのある草など、はだしで危険な環境がないわけではないが、気候はあたたかいし、砂浜や熱帯の樹林は、足の裏にひんやりとして気持ちがよい。はだしこそ最も合理的だったのだ。

ポリネシアの伝統の上に、日本からの移民文化が重なりあう。日系移民はアメリカ文化に融合したが、多くの点で日本の生活スタイルを守り続けた。家屋は非日本的でも、室内に外の泥やゴミを持ちこまない、という原則を忘れなかった。白人社会も、それに同化されて、やってみると、いい習慣だとわかった。

市街地のなかでも子どもはハダシだ。

アメリカの宣教師たちは、キリスト教だけが絶対の真理だと思い込み、「異教徒」たちを改宗させることに専念した。わけのわからない神様を信じて奇怪な宗教儀式を行っているポリネシアの人々の生活は、みだらなものに見えた。とりわけ、ハダカというのが言語同断。

そこで、宣教師とその奥さんたちは、カーテンやシーツの布を使って、ハワイ人の衣料品を作った。のちに、日本人の移民がやってくると、布団や家具を包んできた夜具風呂敷がシャツの材料になった。そうした努力の甲斐あって、ハワイの原住民は布を身につけるようになった。男はシャツ、女はムームー。

ところが、シャツを着たままカヌーやサーフィンをしたハワイ人たちは肺炎になり死んでしまったという。宣教師たちがいなくなり、ハダカの時代が戻ってきた。服の下に水着をつけていて、いざとなれば服を脱ぎ捨てて海に入る。娘の学校では、昼休みはプールで大さわぎ、学校の帰りには浜に出てひと泳ぎ。

反物をオーダーメイドでシャツに仕立てる店ムサシヤの2代目で、
アロハシャツの基礎を作った宮本孝一郎氏。

ハワイ語の中には、それに対応する英語の語彙を欠き、そのハワイ語が極めて適切なために、ハワイ英語の標準ボキャブラリーに組み入れられている言葉がある。その典型がププ。ハワイ語辞典を引くと、まず「貝」とある。さらに日本語の酒の「肴」のことも意味する。

ところが、このププに対応する英語がない。私の比較文化研究セミナーでそう言ったら、アメリカの学生が「オードブル」と答えたが、これはフランス語で、しかも上等な料理を期待させられる。ププは、なんでも包摂する。キャビアも、ブルーチーズも、煎餅も、ヒマワリの種も、ピーナッツも、ププなのだ。

ハワイでは「カクテルとププ」のパーティを気軽に開く。ハム、チーズ、クラッカーと紙のお皿を用意しておけばよろしい。簡単な料理を提供して、肩の凝らないディナーパーティにもできる。招かれているうちに、私たちも開くようになった。5時頃からププをつまんで酒を飲みはじめ、8~9時には終わる。

ハワイでは「カクテルとププ」のパーティを気軽に開く。

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