見出し画像

加藤秀俊『ホノルルの街かどから』⑤ワイキキ、客の送迎、日本語放送局、アロハ、フロンティア、太平洋

観光で来る人たちは、ハワイというと、ワイキキを連想する。とにかく、1日24時間、にぎやかで楽しいところなのだ。しかも、ここの海岸は美しい。海岸沿いのヤシの木は、貿易風にそよぎ、太平洋に沈む太陽が大空に描き出す夕焼けは、ワイキキ以外では見られない。

しかし、ワイキキが、ホノルル市のごく限られた行政区であることも事実だ。そして、ホノルルで生活をし始めてみると、ワイキキが極めて特殊、例外的なところに思えてしかたがない。物価も高く、人口密度も高く、大部分は休暇旅行で遊びに来ている人たちだ。生活者の文化と旅行者の文化とは、大分違う。

そんな気持を友人に話したら、「お前がマリヒニ(外来者)でなく、カマアイナ(土着人)になった証拠だ。カマアイナ風のワイキキの使い方を教えよう」と言った。彼は、閑散としている昼のワイキキで、ハンバーガーを買い、一流ホテルの美しいバーの海側のテラス席に座り、ビールを注文し、昼食を楽しんだ。

デュークス・ワイキキのテラス席

クック船長が1778年にハワイ群島を発見して以降、太平洋上での補給基地としてのハワイに目をつけたのは、アメリカの捕鯨船である。19世紀はじめ、船団は、マウイ島のラハイナを寄港地にした。サンゴ礁が形成されていないので、水深が深く、接岸が容易だったのだ。

私が初めてアメリカを訪れた1954年には、羽田を出た飛行機はまずウェーキ島に寄り、次いでホノルルに寄ってから、ロスアンゼルスに向かった。こんにちも太平洋の東と西を旅行する人たちの多くは、帰りがけにホノルルでひと休み、というのが典型的パターンだ。ハワイは、本質的に寄港地であり通過地だ。

通過客の送迎に、ハワイは熱心だ。私もここに来てから、初めはおっくうだったが、しばしば送迎をするようになった。
船の時代には、島を離れるとき、レイを海に投げると、再びこの美しい島に帰ってこれるという信仰があった。私たちはアロハタワーの電灯が遠ざかる頃、レイを投げることを忘れなかった。

通過客の送迎に、ハワイは熱心だ。

秋、電話がかかってきた。「『暮しの思想』をラジオで朗読させていただけませんか」。
私は驚いて「私の書いたものがハワイの人の役に立つのなら、それだけで光栄です。どうぞご自由に」と答えた。
そんなきっかけでハワイの日本語放送局の人達と知りあいになった。

『暮しの思想』は、朝の8時45分から連日、朗読された。続いて『生活考』『続・暮しの思想』と、ほぼ1年にわたって、毎朝の15分が私の本の朗読に使われた。
いろんな人から「放送を聴いている」と言われ、日本語放送局の威力に再びびっくりした。友人の推定では、ハワイには日本語族が5万人いるらしい。

日本語放送局で2、3回、インタビュー番組に出演した。アナウンサーとの対話の合間に、聴取者からどんどん電話がかかってくる。内容は多種多様。長い間日本を離れているハワイの日系の人たちは、最近の日本について、なんでもきいてやろうという好奇心に満ちているから、いろんなことをたずねられる。

ハワイの日本語放送局

ポリネシアの言葉の中で最もポピュラーな言葉はアロハだろう。ホノルルに滞在していて、アロハを耳にしない人はいない。アロハは歓迎を意味するが、実際には、もっと多くのことを意味する。ありがとう、こんにちは、さよなら、おめでとう、お葬式の時もアロハだ。

アロハとは、人間たちの集団的・情緒的な高揚状態を確認しあう合言葉なのではないか、と私は思う。再会であれ、別離であれ、複数の人間が、悲しみや喜びの情緒を共通に経験することが、アロハなのだ。感きわまった、言葉にならない心的状態を、ポリネシアの人たちは、アロハという言葉に集約したのだ。

州知事が招集した「ハワイ2000年会議」には、たくさんの住民が参加し、観光客を誘致しようという開発派、自然を守れという保守派、真珠湾を中心とした軍事基地への賛否の意見が対立し、混乱は最終日の総会にまで持ちこされた。次々に壇上に立つ報告者たちは、みな、ばらばらに勝手なことを言っている。

総会終了15分前、聴衆の中からポリネシアの年配の婦人が立ち上がり、「いろんな意見があるようだが、ハワイの人たちが幸せになる道を考える熱意において、変わるところはない。異なった意見を大きく包むのはアロハの精神である。我々は困難にぶつかるたびにアロハの心で物事を解決してきた」と話した。

ざわついていた聴衆は、彼女がアロハ精神について話す頃にはシーンとなり、話が終わると万雷の如き拍手が大講堂をゆるがし、会議は劇的な終幕を迎えた。狭い島では、対立を避けて生きる知恵が望ましい。ポリネシアの人たちは、不定形なアロハという包括的精神で、人間を包みこむことを知っているのだ。

カハラ・モールのアロハの装飾

東南アジアからミクロネシア、ポリネシアの島への最初の移住の痕跡は、紀元前千年まで遡ることができる。その後何回にもわたる移住が行われ、西暦1000年前後にはトンガ、サモア、ハワイを含む太平洋の島々での定住生活が始まった。太平洋の人類史は4千年に近い。

この大きな海域が西洋人の知識の中に組み入れられ、太平洋の名を与えられたのは1520年にマゼランの船がこの海に乗り入れてから。太平洋を実用的な東西交通の道として使ったのは19世紀後半のアメリカ人。1853年に東京湾に姿を現したペリー提督は、アメリカの太平洋に対する関心を象徴する最初の人物だ。

19世紀初め、アメリカの宣教師たちも太平洋の島やアジアに向かい、捕鯨船も北太平洋で活躍し始めた。様々な船で太平洋を横断し、1937年に初めて定期航空路を開いたのもアメリカだった。ロッキー山脈を越え、カリフォルニア州に達したアメリカのフロンティアは、ハワイ、フィリピンを版図に入れてきた。

ジョン・ガストが1872年に描いた「アメリカン・プログレス」

アメリカで発行されている世界地図は、ほぼ中央に大西洋があり、アジアは一番右にある。太平洋は左右の両端に分裂。この地図は、西ヨーロッパで作られた地図と同じ。ロンドンを中心に、アジアは東、アメリカは西、というヨーロッパから見た世界像を象徴している。

太平洋は、東まわりでも、アメリカ大陸を越えても行けるという認識で、19世紀末までのミシシッピー以東のアメリカ人は、ヨーロッパ経由でアジアに旅行した。ペリー提督でさえ、インド洋経由で日本にやってきた。アジアを、西方にあるものと見ているのは、カリフォルニアなど西海岸の人たちだけだろう。

一方、ホノルルから見て、東は欧米、西はアジア。日本の世界地図の中心は太平洋。日本やアジアの人は、アメリカを太平洋を越えた東にあると考える代わりに、大西洋が分裂している。
使い慣れた地図は、国民の世界像に影響を与える。太平洋共同体を考えるには、こうした認識の偏りを埋める努力が必要だ。

アメリカの世界地図と日本の世界地図

太平洋は大きい。そして、太平洋に直接の利害をもつ人口は20億人に近い。この20億人は、いくつもの国や島に分かれ、異なった利害をもっている。しかし、この20億人は、太平洋を共通の舞台に生きようとしている。太平洋共同体は、達成されなければならない目標だ。

太平洋の大部分は公海であり、いかなる国家の権力も及ばない。そのことが、将来の希望にも不安にもつながってゆく。高性能の漁船が無統制な乱獲を続けたら、どうなるか。公海と言う理由で、いくつかの国は核実験を行い、恐るべき結果を生んだ。タンカーは油を撒き散らし、沿岸の工業は汚染物質を流す。

太平洋は、ゴミ捨て場の様相を呈している。我々の仕事は、しっかりした計画と管理によって、太平洋を人類全体の公園にすることではないか。多くの反省と、洞察と、友情と、想像力とによって、太平洋は、ポリネシアの人たちが楽しみ、マゼランが航海した時のように、平穏の海であり続けることができる。

太平洋を人類全体の公園に

関連する投稿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?