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「有害な男らしさ」という概念~ 『これからの男の子たちへ』

すごい話題本になっていた『これからの男の子たちへ』(大月書店)、やっと読めました。ああ、読めてよかった! きっと読まれた方も多いと思いますが、まだの方には本当におすすめしたいです。

新時代の「男子教育本」(性教育etc.)ですが(←だから、末っ子が中学になる前に読まねばと思っていた)、それを遥かに上回る1冊でした。

男子の親のみならず、女子の親にも必読書。ジェンダーというものについて、また一歩視界が晴れて、なんだか自分自身が救われたような気がしました。。。

幼児期からうっすらと男子を取り囲む<有害な男らしさ>のバイアス。当事者として薄々感じてはいたけれど、これが舌を巻くほどあざやかに描き出されています。幼児期からはじまる権力抗争や序列、さらに、「男子ってそういうものだよね」という周囲からの<許し>や<放置>や<強化>が、どんな大人や社会を形成し、どんな風に女性差別につながりうるのか。

・・・読んでいて、「自分が子どもの頃あんなに苦しかったのは、この<有害な男らしさバイアス>のせいだったのかも…」と、47歳にして腑に落ちました。

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想像にかたくないことと思いますが、僕は子どもの頃、全然<男らしくない男子>で、運動も苦手だし、力も気も弱く、「女っぽい」と男子からも女子からも馬鹿にされる子どもでした。

男子っぽい話題や笑いや言葉づかいにまったくついていけない自分はとてつもなく格好悪くて、かと言ってそこに同化する感じにもなれず、いつもおどおどしていました。クラスの全員に馬鹿にされたわけではなく、笑い合える友達も男女ともにいたけど、レッテルを貼られた自分はどこに行っても恥ずかしく、<嘲笑される自分>がアイデンティティという状態でした。

生まれつきの性格もあっただろうし、浮世離れした上品な母子家庭の一人っ子だった家庭環境も(←それ自体は決して悪かったはずはないけど、当時は本当に少数派で、周囲とあまりにも違ったという意味で)もしかしたら影響したかもしれません。中学の終わりくらいまで、本当にすごい劣等感で、ものすごく陰気な子どもでした。

そのうち、時代が追いついてきたみたいで、いつしか「草食系男子」とか「スイーツ男子」みたいな言葉も出てくるし、主夫も増えるわ(まだまだ少ないけど)、男性の育休取得も進むわ(同上)、何だかどんどん生きやすくなり、今では自分の個性を偽る必要もなく(むしろすべてを特性につけ変えられた感すらある)、本当にのびのびと生きられる地点まで来ました。

・・・が、今でもあの暗黒の子ども時代のトラウマは、自分の中の深い部分に癒えない痛みや恐怖として残っています。いくつかの線がもしうまくつながらなかったら、自分、もしかしたらやばかったかも…という気持ちもあります。

これまでずっと、単に「周囲とずれていたから」「なじめなかったから」と思い込んでいたし、(みんな意地悪だったなとは思うけど)「実際そう言われても仕方ないような自分だった」=つまり「原因は自分にあった」と思っていました。でも、この本を読んで、もしかしたら自分も同級生たちも、みんなこの本にある<有害な男らしさバイアス>の社会的な餌食になっていたのかも・・・と思いました。

みんな、軽いいじりのつもりだったはず。それが子どもの口から出るというのは、やっぱり、親やメディアからそういう意識を植え付けられていた(もしくはそういう発言がNGだと植え付けられていなかった)からに他ならないわけで、僕はその顕著なはけ口となったのでしょう。

今ではずいぶん時代も変わりつつあるはずだけど、軽い気持ちの「男の子なんだから」「女の子なんだから」という些細なイメージの強化がどんな暴力性につながるのか、身をもって知る僕としては、断固、その不適切性を訴えたいです。

でも、この本の秀逸性は、そうした「男らしさ」にしっかり同化できている男性たちだって、「実は苦しい可能性があるんですよ」ということを見事に描き出していること。「強い男性」「がんばる男性」「頼れる男性」「上に立つ男性」の終わりなきプレッシャー。たぶん、あまりふだんはっきり意識していないだけで、多くの男性が囚われているのでは? つまり、被害者は僕のような人間だけではありません。

そして、僕はそこから自由になれたからこそ、こんなに幸せになれたのだろうな、とも。そういう呪縛から完全に解放されて、旧来的には<女性の領域>だったはずの<エコな暮らし>とかの分野にまでズカズカ踏み込んで自分の持ち味を発揮できたのは、本当にラッキーなことだったし(=少し前の時代なら難しかったかもしれないし、何の偏見もなく200%評価してくれた妻の麻子さんには感謝しかない)、つくづく、ある意味、わが家の<エコな暮らし>の裏テーマは「ジェンダーフリー」だな、と。

実際、よく「夫が無理解」「全然関心を示してくれない」みたいな声はよく聞くのですが、自分のことを振り返っても、「そりゃ、幼少時からあんなに刷り込みされたら、無理もないよね…」とも思うのです。まだまだ、越えがたい呪縛があると思います。「女っぽい=格好悪い」と。たぶん(無自覚に)下に見る意識もあるでしょう。解放されたら、こんなに広い世界が広がっているのにね。

同じ環境問題でも、男性はどちらかと言うと「技術革新」「ビジネスチャンス」「政策転換」みたいな話に傾きやすく(そして自分がペットボトルやジャンクフードをやめることは考えない)、女性は「ライフスタイル」「マインドの変化」「教育」とかに傾きやすい(そして技術革新とかには不信感を抱きやすい)。「それぞれの特性をうまく融合して…」と言いたいところでもあるけど、そういうポジティブさよりは「残念な分断」と感じてしまう面も多々あります。そういう意味では、環境問題の前進には、より一層のジェンダーフリーもセットで必要だろうな、と。

・・・ちょうどそんなことを考えていたところへ、男女共同参画センターのイベントに「サステナビリティに向けた男女の協同/ジェンダーフリー」といったテーマでのお話をご依頼いただき、大いに気持ちが盛り上がっているところです。

主催側の方から「基調講演が男性講師となるのは初です。男女共同参画のイベントに<またしても男性講師>という議論もありましたが、<男女がともに尊重しあい協同する>を実践されている方として、ぜひ」という光栄なお言葉。心からうれしく思います。さて、どんなお話をしよう?

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