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# 43 悩める人間

心や意思や欲望が社会生活で大きな役割を果たす。これは理性が果たす役割より重要と言う人がいる。何かしら気になる!

今回、このテーマを漸進法で考えてみた。

1。現実にそれが大きいとはいえ、理性が果たす役割を凌駕しているのかは甚だ疑問だ。
2。社会で、コミュニケーション能力とか人付き合いは重要であり続ける。理性的だけどお付き合いしたくない人もいる。
3。それは公平な考えではない。極論でもある。
4。人間の意思は心と直結しているので、どうしても好き嫌いが出てきて、公平感が保てない事がある。このような不安定な心を、ある程度は見逃してもらいたいものだ。
5。元々、心や意志は気まぐれだし、見逃すとか見逃さないと言うものではない。だが、その意思決定が人生を決定づける事になることもある。
6。そんな事にこだわりすぎるのもどうかと思う。期待するのは勝手だが、他人の意向を気にして生きるのも堅苦しいし、気に入られようとすれば疲れる。
7。理性的な生き方を推奨するのであろうが、理性は未来予測にはあまり役に立たない。既存の知識を駆使して、関連ずけには優れているのである。
8。それは確率論的な知識を考慮していない発言である。確率的シミュレーションは現在の科学の一端を担っているのである。
それらを加えた理性は昔、考えられていたそれとは違う。昔は理性の比重が軽かった。
9。理性的とはいえないかもしれないが、空気を読む事は大切だ。人それぞれの考えていることを予測して、臨機応変に対応する、いわば社交性が現在でも重要だと思う。スマホを睨みつけて、人の目を見ないでいたい、という人が増えているのは由々しきことではないだろうか!
10。スマホを見ている事が理性的とはいえない むしろ非理性的な仕種であろう。理性の話になるとどうしても抽象的になる。 個々の知性を関連づけてゆく過程で抽象化してしまう。
11。抽象化すると人の心は失われてしまう。
12。理性的になり抽象化すると、心や意志からの言葉は確かに減って行くように感じるかもしれない。理性の言葉は禅問答の様でもあり、分かる人にはわかる、分からない人には分からない。だからと言って非人間的ではなくて、より人間的と思う。
13。心とか意思の言葉がこの世に充満しているのであり、それが社会生活において、理性より一般的であり、有効である事の論拠にもなる。
14。それは次元の違う話の比較をしていると捉える。今回のテーマへの批判でもあるのだが。
現在では、理性的にならなくては、経済は回らない。経済は生活そのものであり、理性は社会の背後にある思考そのものである。自由主義経済は理性のフィールドであろう。理性は言葉ではなくても、体制に組み込まれて世界に充満しているのだ。
15。そうすると、理性は極論であり、その対局は心とか意思であるのだろうか?
16。そうとは思はない。先ほど言ったように、それは異次元の比較をしている。
心とか意思とか情念は感性の世界に位置する。同じ位置での極論と対極は存在する。知性の世界にも極論と対極が存在する。それらを関連付けるのが理性であり、中庸の位置にあるはずで、極論であってはならない。
17。どう見ても理性は上から目線とか俯瞰的な視点とかに受け取れる。そんな生活は瞬間的には可能であろうが、疲労が甚だしいのでは無いだろうか?
18。多分、誤解している話だ。上から目線とか俯瞰的にというのは多くは知性のなせる技でしょう。象牙の塔に住み着いた学者などが発する知性の極論でもある。
勿論、感性の世界でもそのような極論のポジションを取る事がある。差別や偏見の多くはそうなのだろう。
しかし、理性は鳥が地上を見下すような、そんな目線ではなくて、地上スレスレから見つめる、そんな視点である。ソクラテスが無知の知と言ったのだが、この言葉は理性の世界からの視点であり、地上スレスレからの景色と響きであり、心地良い。
19。そんな理性の世界に到達出来るのは修行者やお坊さんだけで、普通の人では無理でしょう。だから一般的な心とか意思とかの環境で、空気を読みながら、人に好かれるように心配りをして生きてゆくのが、処世術であり、皆がそうしているはず。
20。心とか意思の力はこれからも未来永劫に引き継がれて行く。
しかし、その処世術は極論の部類に入り込んでいるのかもしれない。その様な処世術は徐々にではあるが守備範囲が狭まって来て、通用しなくなる可能性もある。
21。社会が徐々に変わり始めている実感はある。理性の役割は拡大しているのだろう。という事は、理性的であるために、努力する、頑張る、そうすべき社会になり始めているという理解で良いのだろうか?
22。努力するというのは?やはり、極論の部類であろう。
先日、放送でヨガの話を聞いた。その中で「あなたの幸せを願っています」という言葉は魅力的で、愛と理性の響きを感じた。
向こう3軒両隣の大阪の長屋で育った方が、みんなで貧乏を分かち合いながら、助け合いながらの生活は楽しかったと人生を振り返っていた。これも同じ響きがある。
イタリアでコロナ患者が急増し、死者が増えて行く最中、酸素吸入機の不足が深刻であった。ある高齢女性が、「私はいいんです。貴方は若いし、将来があります。どうぞ使ってください」と言う報道に接した。理性というより、愛を感じた。
自分の生活がままならないのに、能登半島地震のボランティアとして参加している方にも同様である。
理性的になろうと自覚し努力しなくても、極論に陥る事なく、到達出来る境地が目の前にある。普通に生活していて、自然体で知らずに理性や愛や人情や中庸に関わっていることが多いはずだ。人間に授けられた多様性に感謝したい。
頑張らなくても良いのです、気にする程度で十分です。
またしても、牧師さんのような話でした。

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