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悟りとはどのようなものか(大般涅槃経)

大般涅槃経(四十巻、曇無讖訳)を読み、気付きを得た部分について書いていきたいと思います。今回は悟りと仏性(仏になる、悟りに至る可能性)に関する二か所です。

是道一體。如來昔日爲衆生故種種分別。

こちらは巻第十三の言葉です。お釈迦様が悟りを得るための道について語る部分に出てきます。概要としては、以下のようになります。

私は仏道として一つの道を説くことがある、二つの道を、三つの道を、・・・八つの道(八正道)を、・・・二十の道を説くことがある。
このようにさまざまな道を説いているのだが、道は一つ(の総体)である(是道一體)。ただ、人々のためにさまざまに分類して説明してきたのだ(如來昔日爲衆生故種種分別)。

仏教はお釈迦さまが亡くなられた後、教えの解釈によってさまざまな集まりに分裂していきました。この見方が正しい、いや、あの見方が正しい、いや、大乗こそが正しい、私こそが正しい・・・と。しかしながら、適切に仏の言葉を解釈したものならばいずれも正しいのですね。少なくとも、正しい道の一側面を正しく見ている状態ではあるわけです。それなのに、我々が優れている、彼らは劣っている、彼らは悟りに至ることができない、できたとしても劣った悟りにしか至れない・・・と批判しあうようになっていったわけです。現在でもそのような傾向はなきにしもあらずですね、たぶん。

そのような状況を真正面から批判したのが法華経(一乗思想 - 部派仏教、大乗仏教などを問わずあらゆる人が同じく救われる)ですが、一乗思想に通じる思想が大般涅槃経にも示されている、という点で「おお・・・」と思った部分でした。

虚空非生非出非作非造非有爲法。
如來亦爾。非生非出非作非造非有爲法。
如如來性佛性亦爾。非生非出非作非造非有爲法。

一行目は「虚空というのは生じるものではなく、出現するものでもなく、作り出されるものではなく、生み出されるものでもなく、因果によって存在するものでもない」という意味です。

虚空というのはなにも存在がないということ指します。「無」ということです。当たり前のことですが。「無」は生じることはありません。何か生じる(た)ものがないということですから。同様に「無」は出現するわけではありません。出現するものがないということですから。・・・同様に「無」は因果によって存在しません。存在するものがないということですから。

「無」を何も存在しない状況を表す語として捉えると、「無(という状況)」が生じると言えるわけではありますが、「無」をそのまま捉えれば、「無(そのもの)」は生じ(るものでは)ないという言い方を理解できるかと思います。

二行目は「仏(悟り)もまた、同様である」
そして三行目は「仏性(仏になる可能性)もまた、同様である」と言っています。

この一連の言葉の何に感銘を受けたかというと、虚空、悟り、仏になる可能性というのはいずれも生じるものではないという主張です。
「悟りを得る」という表現があります。私は今までこのような感覚でいたのです。つまり悟りという現象/状態があり、それには構成要素があり、それらの構成要素を獲得していった先に悟りがあるのだ、と。しかしそれは認識がずれていたな、と気づいたのです。
悟りというのは、何かを得ていくわけではないのです。むしろ逆で、苦が生じる原因を消していくということなのです。詳しい説明は省きますが、仏教の基本的な思想である十二因縁(Wikipedia)を見るとわかるように、無明という苦の根本的な原因の消滅が悟りなのです。

このような大前提があるからこそ大般涅槃経の代表的な言葉「一切衆生悉有仏性(すべての生類は仏になる可能性を備えている)」が論理として、間違いのない真理として成立するということに気づかされました。
新しいものを生み出すこと、新しい能力を得ること、こういったことは誰にでもできるとは言い難い。しかし、苦しみやその原因を捨て、それらがない状態に近づいていくことであれば、難易度はさまざまかもしれませんが、あらゆる人が可能性を秘めているとはっきり言うことができます。


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