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抽象

物事を観察していると、いくつかのものの中にある共通する性質を持っていることに気付くことがある。次に逆にその性質をもつような対象について考察し、その性質から帰結する定理が得られていく。

こうして共通する性質Pを糸口に、その性質Pが引き起こす他の性質Qもまた、もとの性質Pを持つものにも同様に性質Qを持つことがわかる。

性質Pを見出すことを抽象するという。

数学ではこのような考察の方針がまずあって、いくつかの具体的な例を頼りに何らかの性質を見出し、新しい定理を導き、これを繰り返し続ける。

しかし、数学は表向きはそういうことであるが、実際人の心の中ではどうなっていると思いますか。

私には、そこにはその定理という「点」の知識の集積というよりも、システムの動きという、いわば「線」の方を把握することに重きを置いた姿勢から来ていると思うのです。

例えば、プログラムがいくつかあって、これらが互いに適切にリンクして一つの大きなシステムがあるとしよう。システムの変更があったときに、1つ1つのプログラムのどこにどのような変更を入れるかを検討して、影響範囲の調査を行い、問題がなさそうであれば実際にプログラムを修正して、またプログラムたちをリンクして、システムとしてうまく動いているかをテストする。テストで問題なければ本番リリースする。

数学もシステムに喩えることができて、一つの数学的体系というシステムに、新しい条件を追加する、もとの条件を変更する、もとの条件を削除する、など何かが少し変更されるだけで、その数学的体系も変わってくるのですが、そのときもとのシステムの動きが分かっていれば、おおよその影響範囲は見えている訳です。(とはいえ、当然がらっと変わるような影響の大きな、根本的な条件というものもあります。)

システムエンジニアで一つの保守をしばらく担当していたのでわかりますが、巨大なシステムを預かる場合、ある程度は有識者に依存しないと手に負えないところがあります。長年そこで構築から保守をやってこられてたエンジニアの方のシステムの知識には、システム構造が文字通り「見えている」ので仕様変更したいときにはどこを変更すればよいかが咄嗟に見当がついています。実際にはその上でしっかり調査して影響範囲のエビデンスを揃えていきます。しかし先に直観が働かないと、ものすごく時間がかかって人件費も莫大にかかってきます。(そんな巨大なシステムを持ってることがそもそもの問題であるという考え方はあると思いますが、現実はその点がうまく解決されずに残っているものです。)

つまり私が言いたいのは、一つの数学を研究するとき、そのシステムの構造を含めて頭に絵を持てないうちは、本当にはわかっていないのです。

それで、数学の世界は論理で展開するものの、それより先立つイメージが勝ってくる訳です。実際、私の師匠から教わった言葉に、「絵がないなら出直して来い」です。(泣)

数学は論理的な証明が続くので、一見論理の扱いがうまい人がやる仕事に見えるかもしれませんが、論理で表現することは必要にしても、それ以前の洞察・想像のような感覚の方が先に立ち、そのあと論理的に確かめるだけです。だから「予想」と付くものがたくさん残っているのです。予想というのはそれが肯定的にも否定的にも証明されていないが、正しいのではないかと思われる未解決の命題です。

18世紀のオイラーの時代でいえば、それこそ証明は重要視されていなかったし、それでもオイラーは洞察だけで今でも全集が完成していないくらいの業績を残している。そう考えれば、証明にこだわるというより、どんな景色になっているかの方がよっぽど重要ではないでしょうか。





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