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なんか幸せに生きようとしてもいいっぽい、人生

 2020年12月、韓ドラに突然ハマった。チャーミングな同僚がごり押ししてくるので安易に再生したらNetflix全体がでかい韓ドラ沼のようなもので、終わりが見えない。そこで実に5年以上ぶりの男性の推しができたのだが、彼が結構自分の状態について面白い示唆をくれている。
 「男性の」推し、と注釈をつけたのは、男性ではない推しは結構頻繁にできるため。男性が少ないのは恐らくわたしが基本筋肉に生理的嫌悪を感じてきたせいである。男性芸能人はどうしても男性性が強い方が持て囃される傾向にある気がするし、筋肉質な人が多いのも必然だろう。(高校のとき推していた声優の梅原裕一郎くんも筋トレを始めてマッチョになってから熱が冷めた。)
 ではなぜ強い生理的嫌悪があったのかを考えると、筋肉そのものというよりは過剰な生の匂いが無理だったんだと思う。そう思って人生を振り返るところころ思い当たる節が転がり出る。脂肪も同様に忌避してきたし、汗が出ることは好きになれず運動部どころか体育の授業すらサボっていた。時折咀嚼や嚥下に自分の生気を感じて恐ろしくなり、ものが喉を通らない。嘔吐にも恐怖感が強い。男性性と同様に過剰な女性性からも目を背けたくなる。出産や産後直後の映像にどうしても可愛さよりグロテスクさを感じてしまう。とにかくむっと漂うような生気が怖い。
 でも今回の推しは誰がどう見ても筋肉質で、そしてそんな彼を見て忌避感をあまり感じなくなっていることに気づいたのである。これはつまり、生そのものへの忌避感、嫌悪感が徐々に払拭できてきているということなのでは?

 のちに気づいた払拭の根本理由は後述するが、忌避感が薄れたことを認識した以上は逃げ続けてきた生の志向を試みたいと思ったのである。すると、これまで目を背けてきた「生の匂いが無理」の弊害がゴロゴロ出てきたので、今回はそれを整理してみたい。


生きる以上、幸せ志向から逃げ続けるのは難しいっぽい

 まずこの話題を考えたとき、「生の志向」とは何を指すのかを当然考えるべきだが、わたしにとっての「生を志向する」ということは「幸せな生を志向する」こととほぼ同義なようだ、という帰結にすぐ気づき始めた。つまり、積極的に生きようとすることと、自分が幸せになろうとすることは、どうやら不可分なのである。
 実はこれまで、自分の幸せを志向することが人類の共通点とされがちなことがかなり不思議だったし、わたし自身は幸せの志向が得意ではないと自覚してきた。
「ありのままでいいよ」「頑張らなくていいよ」というメッセージは世に溢れていても、それらには必ず「そうやって幸せになろうね」が付属している。「幸せにならなくていいよ」とは誰も言わないのはなぜか?幸せはそんなに押し付けられるべきものか?幸せハラスメントでは?
 しかし、幸せは万人の目的ではないという主張は、どうやらうまく議論しづらいことにようやく目を向けられるようになってきたのである。

 ではなぜ幸せを志向することを避けてきたのかを探ると、間違いなく第一に避けても飢えずに食っていける有り難い生まれだったからで、恐らく第二にそれを自分に許せるだけ自分のことが好きではないからだ。一歩進むごとに過去自分が生きた軌跡がまた一歩黒歴史になっていく、というような主観をもって自己を省みてきたため、自分を好きにならないのは当たり前かもしれない。おどけるのが得意になってから気づかれづらいがコンプレックスもそれなりにある。最近コンプレックスから逃げるのではなくとりあえず一個ずつ潰していけばいいんじゃんと言ってくれる人たちが周囲に登場してきてだいぶ心持ちが変わってきたのだが(感謝感謝…)、まずなぜそれを潰してまで幸せにならなければいけないのかの答えをここで出そうと思う。

 まず、幸せを避けて生きるのは容易ではない例を出したい。例えば自分の幸せよりある人の幸せを優先したとする。それはなぜかを考えると、目の前の理由は純粋な愛情かもしれないし迎合せざるを得ない社会規範かもしれない。しかし、なぜその愛情なり規範への迎合なりを優先させたいのか?を問い続けると、なんにせよ回り回って「その人の幸せを優先した方が総合的に見て自分が幸せだから」その人の幸せを選択していることに気がつくのである。誰かを思ってする自己犠牲的選択のように見える大半が、本当はこのような自己本位(批判ではなく事実として)なのだと思い当たる。このように考えると、私たちが自分の幸せを志向することから逃れるのは実は全く簡単ではない。

 わかりやすい例を挙げると、ワンオペ子育てや2拠点生活のコスト、周囲からの考え得るバッシングと、自分のキャリアを比較衡量したときに、自分の仕事を辞めて男性パートナーの転勤に帯同する女性等。「夫の幸せを優先してキャリアを犠牲にした」と思われがちだが、実は双方のシチュエーションにおける自身の幸福の総量を比較していることが分かる。もっと小さいことで考えるときっと身近にもある。
 (ここでは構造に既に組み込まれてしまった人間の選択自体について述べており、構造の孕む問題はまた別の論点である。)

 その上でなお、自分に幸せを許せない何かしらのストッパーを抱える場合、人は現実では何をするかというと、大まかに括ると程度問題ではあれ「不幸を志向する」ことになる。(幸せでなければ必ず不幸かというと各人の定義によりそうだが、ひとまず大まかに。)すると、多かれ少なかれ自暴自棄になり、結果身体や精神に余計な負荷をかけたり(締切直前まで課題に手をつけなかったり…)大好きな人を傷つけたりするわけだが、それは自分が自分に幸せになることを許せない代わりに「楽になりたい」から行うことである。本来自分が在るべきと思い込んでいる「不幸」とされる場所に自分を閉じ込め、幸せを敢えて自分から遠ざける行動をとることで、自分にも他人にも向き合わずに済む。結局自分本位だ。(これも悪口ではなく事実。)

吐くまで飲むを良しとする大学生の飲み会に対して異常に嫌悪感があったのは、彼らの姿勢の中にこの自棄を見出した同族嫌悪だったのかもしれない。

 そうなってしまうのは、恐らく幸せというのは実はそう簡単に目指せるものではないからなのではないか。特に社会的動物である我々は簡単に他者と自分を比較してしまうが、自分より金持ちで頭脳明晰で容姿端麗な人間は探そうと思えばいくらでもいる。きっと本当は、各々の幸せというのはそういった社会的尺度に迎合しなくても見つかるはずだ。だが、自分にとっての幸せとは何かを考え続けるのは、それはそれで結構つらい。自分の心の奥底を掘っていかないと見つからないので、見たくないものを多く抱える時には逃げたくもなるだろう。そうやって逃げていった先のSNSで私たちは社会的尺度にガチガチに固められた誰かの「幸福」を目にして心が死に、そもそも幸せを得ることを諦め始める。私はこの程度でいいや。

 別に良い悪いという価値判断はここにはなくて、人生への向き合い方の多様性というだけの話だと個人的には思う。自分の幸せを(巡り巡ってでも)志向することと、自分から不幸に逃れること。多くの人がその時々のタイミングによって両者を経験してきたのではと思う。しかし今わたしは後者に溺れかけつつ前者を選ぼうとしており、その理由は以下である。


愛情は伝え方が全てだが、それはつまりどういうことか

 一旦自分の幸せ論を脇に置き、自分の周囲を見渡してみると、人間がたくさんいることに気づく。我々は社会的動物であり、彼らとの関わりなしには生きられない。周囲の人間に対しての思いのあり方はかなり人によるだろうが、わたしは特筆する自分の特徴として、大事にしたい人がいっぱいいるということを挙げられる。唯一かつ最大の自慢である。
 
その分、わたしは不器用なので、彼らへの愛情の伝え方についてよく悩んできた。抱える愛情が多いせいで扱いを誤って暴発させるなどの事故を頻繁に起こしたため、まず愛情を殺そうとし、無理だと気づいて愛情自体は認めつつ自分の内部で昇華しようとし、それも無理だと気づいて相手に好影響を及ぼすよう適切に伝えるにはということを試行錯誤し始めた。概ねこの5年程度、性懲りもなくこんなことばっかり考えている。

 その肝心の「愛情をどう伝えればいいのか論」について、何度も何度も間違えながら徐々により良い方に向かっていることを認識しつつ、あまり言葉にできないでいた。しかし、原理原則はどうやらとても簡単だ。あげたいものではなく欲しがっているものをあげ続けること。これに尽きる。
 どういうことか。贈り物はわかりやすいが、人間関係全般でそう。関係を結びたい相手の発する全てを真摯に受け取り(主観をできるだけ排除すること)、相手の欲しがるものを差し出す。それが相手を尊重するということである。互いに相手を尊重できない人間関係は必ず歪みを生じるし、尊重したくない相手なのならそもそも関係を結ぶのをやめておいた方が双方のためだ。
 なのに、わたしを含む多くの人が、つい自分があげたいものを差し出したがる。なぜか。おそらく、多くの人間が自分があげたいものをあげて相手が喜ぶ(もしくは喜ぶふりをしてくれる)のを見ることで心が充足するためだ。でもこの満足は、相手のことを考え(切れ)ていない点で相手への愛情とは言い難い。これは、残念なことに他者を使用した自己愛なのである。相手に対して無責任に自分の想いを投げつけることでいいことをした気になっているだけだ。さらに残念なことに、この「想われていない感」は相手にも大概伝わっている。なんの誇大表現でもなく死にたくなってくるな。

蛇足だが、話題だった4℃も論点はこれだと思っている。一回Google検索するか店員に一言相談すれば、30代女性向けのブランドではないことはすぐに分かるはずだ。にもかかわらず思い入れがあるなど特別な理由もなくそれを贈るあたり、「自分がそういうジュエリーを女性にあげたかっただけの自分本位な贈り物」だったんだろうと容易に推測できる。晒す方も晒す方だが、自分のことを想っていないなという失望は理解する。

 自分のあげたいものをあげることで他と違う独自性が出て、相手にとっての自分の価値が高まるというのも一理はある。だが、そんなことをしなくてもどうせ人ひとりが差し出せるものの幅は非常に限られていて、相手の欲しがるものを相手の欲しがる形で全て与えることはできない。だから安心して相手の需要にあったものを、自分の主観を排除しながら見極め、出来うる全力で差し出せばいい。自分らしさはそこに勝手にあらわれ出ると思うのだ。

 ではなぜ、わたし含む多くがこういった自分本位の過ちをするのか?他者を使って自己愛を満たそうとするとき、多くの人は自分の中で完結する自己愛が足りていないがために、他人を使ったマスターベーションを始めるんだと思うのだ。適切に自分を満たせていれば、他者を使う必要もない。「自己肯定感」が過剰に持ち上げられる風潮もどうなのよと斜に構えて見ていたが、こういうことだったんだと腑に落ちている。他人、しかも大事にしたい人たちを大事にするための必携品なのだ

 と、ここで前論に戻り、では自分の幸せを諦めずに志向する生き方と、幸せになることを許さずに楽になろうする生き方と、どっちがいいんだと目の前にふたつ並べてみる。
 答えは明白である。前述の通りわたしは自分が幸せになることには忌避感さえあれど執着はあまりないが、大事な人たちには最大火力でしかし適切に愛情を伝えたいし、あわよくばそれが彼らの幸せに繋がってほしいとまで傲慢に願っている。そのためには、どうやらわたしは全力で自分の幸せを志向する必要がある。
 
つまり、今この瞬間死のうとするのでない以上、大事な人たちを大事にしたいという望みとともに生きざるを得ず、その達成のためには自分をまず幸せにする必要があるため、わたしにとっての生の志向は、幸せな生の志向と同義のようである。

大事にしたいと思う人がいない状況も誰にでも訪れうると思うが、そういったときの人間の在り方については全く考えを及ぼせておらず、今後の1テーマとしたい。大事な人を失ったとき自分もと引っ張られないように、弔いやら祈りやらがあり、それが宗教を生み出したのかななどと漠然と考えている。


幸せな生って何か、そこに至る道はどこか

 で、冒頭に戻り、じゃあ幸せな生ってなんだよと思ったときに、これはもう人によるとしか言えないわけだ。幸せを阻害する自己嫌悪が特にない場合は心の声を聞くまでだし、自己嫌悪がある場合はそれを生み出している根本をぶっ潰すところから始める必要がある。
 わたしにとっては、第一に生を忌避してきたがために今足りていないのはどう考えても健康だ。生涯運動から縁遠く、高2から腰痛で接骨院に通い詰める人生である。アレルギー体質で卵やナッツや果物や花粉や動物や、世界に敵が多い。夜型で朝の最低血圧は45だし、自粛で自律神経をやったらしく耳管開放症になった。視力は0.03。顎関節症。生理不順。偏頭痛。
 不健康は自慢にならないどころかわたしは身体的苦痛にとても弱いので、全てを医学的な対処で解消してきた。日2回アレルギー薬と漢方を飲み、コンタクトとマウスピースを使い、最近は超低容量ピルで快適生理ライフ。おかげで問題なく生きている。医学ありがとう。こういう方向の、つまり生気のない対処を身体に及ぼすのは個人的には精神に好ましい。人工的に体を管理下に置いて、流動的に蠢く生のもたらす不具合を消し潰していく感覚は快い。
 
けれども、薬は根本を解決しない。本当に健康になろうと思ったら腰痛には接骨院よりヨガやジムだし、自律神経には漢方より規則的な生活だし、というか恐らくアレルギーと生理以外は朝起きてよく食べてよく動いてよく眠れればある程度は解決する。そして、それは私が私の肉体とその生気を引き受けて、自分で鍛えていかないと始まらないのである。
 と、わかっていながらも朝起きてよく食べてよく動いてよく眠れないのは、「不健康でもいいや」と思ってしまうから、つまり自分を幸せにするより楽を選ぶからに他ならないだろう。
その楽の導く不幸、不健康はもう知り尽くしている。これを自分に許すことをやめて、根本的に健康になるというのが今年の第一の目標である。

 健康の忌避が単純かつ最重要な問題ではあるが、これ以外にも第二、第三の自己嫌悪による幸せの忌避から繋がる同根の呪いとして、「一番好きな人に好きって言ってはいけない」と「一番やりたいことをやってはいけない」がある。前者は大事すぎる他者に不快感を与えるリスクが1%でもある以上すべきではないと思っていたことで、後者はもうなんだかわからないがかなり根強く、ただとにかく自分の幸せの限界を低く見積もりたかったのかもしれない。
 どちらも昨年認識しはしたものの道半ばで、2021年は行動範囲に制約が未だあるとはいえ、できる限りこれらも壊していきたい。

 ちなみに、冒頭で触れなかったそもそも生への漠然とした忌避感が薄れてきた理由は、恐らく今この瞬間死ぬという選択肢を選ばない理由と同じで、これもまた大事な人たちの存在である。大事な人たちが大事すぎて死ねない、でも死んだら彼らが悲しむからではなくて、わたしがどうしても生きる彼らを見ていたいからだ。そして有難いことに、生きれば生きるほど大事な人の数は増えていく。(近年基本他人に期待をしないので裏切られるという概念が発生し得ず、この人数が減ることはまずない。)家から碌に出ない今年ですら増えた。ありがとう神様。人数が増えれば増えるほど、そして各々との関係が深まるほどに、自分を生に結びつける帯が太く強くなっていく。
 大事な人たちがいる。だから生きていたい。だから幸せを志向したい。だから自己嫌悪をなくしたい。そして大事な人たちを大事にしたい。こうして、彼らの存在が蝶番になって自分の命が生へと向かう循環がある。
いつか死ぬのが決まっている以上、例え仮により良い死後の世界があってもそこへは必ず到達する。生を謳歌できるのなら敢えて焦るのはもったいない。こうやって自身を生へと導く彼らとの関係において出来うる最大の恩返しをしたいと思うのは、ある意味当然のことなのかもしれない。

 あんまり範囲を広げると傲慢だけれども、個人的には既に出逢った人もまだ出逢っていない人も基本全てが愛おしくて、「大事な人」という括りもあってないようなものとも言える。(この文章の中では、すでにわたしの視界に居る大事な人、という意味で用いたが。)だから世界の端っこで死んでいく人たちに拘りたいし、実力が伴うかはともかくそういうキャリアの選択肢を捨てたくないなあと青臭く独りごちたい。



 世の中には夭逝する天才が多い。彼らは多くを語る時間がないため、遺される人間からすると極端に美しく見えてしまう。こうしてどんなに生に意欲が湧いても、彼らのせいで青春期に死ぬのが一番かっこいいという観念からは逃れられないかもしれない。それでも次点でかっこいいのは生き散らかすことだし、一番魂が最悪で最高に美しかったあの時期に死に損ねたわたしたちは次点を目指すしかないわけだ。

 まず未だ根の残る生への諦念から壊していく必要があるので今年の目標へ至る道のりは長いが、わたしには伝えたいラブが沢山あるので、なんとかなるし、きっとなんとかしていくでしょう。色々なものから目を背け、そこから生じたコンプレックスを辛うじてエンジンにし目の前のことを乗り切ってきたこれまでよりは持続可能な生命の運用ができるようになるだろうし、そこを目指したいと思えているので大丈夫。自分にこうして期待できるようになったのも成長だけど、身体の強化なんて自信が皆無なので安易にプロテインに頼るところから始めようかな。(味が不安なので誰かおいしい銘柄教えてください。)

 最後に、これを読むかもしれないわたしの大事な人々へ。弱っても変わっても居なくなってしまってもわたしはずっと愛を持ってあなたがたを想うわけだけど、でもきっと今年も気楽にしっかり生きていこうね。須く悪だと思っていた他人への期待もちょっとなら時に良い方に働くということも2020年に学んだので、新年の神社で少しだけ祈らせて頂いたよ。どうか生き永らえてくれますように、そしてきっとまたどこかで会いましょう。

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