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コラージュ0:灰色のサンプラデリア

むかしtumblrに書いた自作「コラージュ0」の解説を再掲します。「コラージュ0」は2016年12月にリリースしたアルバムで、ボカロのボーカルを含めすべて既存の曲のサンプリングのみで作られています。素材はほぼボカロ曲、一部にパブリックドメインのクラシックを利用しています。以下、その解説になります。

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バンドがインタビューで新譜のコンセプトを語っていたりするのを割合面白く読んでしまうほうです。音楽家なんだから音楽で語れよみたいな言い方もできますが、そういう情報を頭に入れた上でアルバムを聞いてみたりするとまた違った発見があったりするので、導線の一つとして悪くないんじゃないかなと思います。

さて、予防線は張ったのでここから少しの間、先日リリースした「コラージュ0」について文章による説明を加えていきます。


「コラージュ0」はフルアルバムとしては前作「コラージュ1」に続く二作目にあたります。順当にナンバリングして「コラージュ2」としなかったのは、一つには数字が上がっていくことによる、進歩的、発展的(プログレッシブな)ニュアンスを避けたかったというのもありますが、なによりこのアルバムで重要なモチーフとした「空虚」を表すのに「0」という数字がふさわしかったというのが大きいです。

私にとってコラージュ0は都市の空虚にサイケデリアを求める試みでした。そう思って聞いた人はあまりいないかもしれませんが、コラージュ0はとてもサイケデリックなアルバムです。目指したところは60年代的な原色のサイケデリアの再生産ではない、サイケデリアの更新。スロッビング・グリッスルやマイ・ブラッディ・バレンタインがやりとげたことを、私もできる範囲でやってみようとしたのです。ちょっと誇大妄想的ですが、本当にそうならないようにモチーフはある程度普遍的で生活実感のこもったものにしました。先に述べた「都市の空虚」がそれです。21世紀の日本で生きる私が都市で日常的に感じることがある疎外感や不意に訪れる現実感の欠如、バカバカしさ。そうした感覚をサイケデリアと結び付けて表現しようとしたのです。都市にサイケを見出すことは同時に、多幸感に満ちた原色のサイケデリアで扱われる超現実的な幻覚やエスニック趣味、あるいはある種の理想郷としての郊外など、「ここではないどこか」というモチーフから離れることにもつながり、これは60年代の再生産をしないという理念にもかなうものでした。

アルバムの曲をいくつか仕上げたころから前述したコンセプトを表現する言葉として「灰色のサイケデリア」を意識するようになりました。私が勝手に作った言葉です。ところが最近になって新たにサンプラデリア(サンプリングによるサイケデリア)という言葉を知ってしまいました。なるほどこの言葉はファウストからアヴァランチーズまでを一発で言い表せるし、私の音楽もそこに含まれるなと思ったので、アルバムのコンセプトに少し訂正を加えることにしました。それがすなわち「灰色のサンプラデリア」です。

しかしそうやってコンセプトをこねくり回してみたものの、アルバムを通して完全にこのコンセプトが守り通されたわけではありませんでした。例えばクウノクウなどはまったく灰色とはいえない世界を持っています。暗い曲ばかり作るのに飽きたからというのが一番の理由ですが、アルバムで表現される空虚と孤独を際立たせるために多幸感を含む曲を対比的に使ったというのもあるかもしれません。作ったときはそんなこと考えてなかったんですが、後付けでそういうことにしておきたいです。

最後に、アルバムで私が気に入っているいくつかの曲について作った感想のようなものを書いておこうと思います。

2.猫のための借りてきた歌

サティの「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」、ニール・ヤングの”Borrowed Tune”、慣用句の「借りてきた猫」を合体させたナンセンスなタイトルが気に入っています。なにを言っているかわからないミクの詠唱は円周率の羅列を逆再生したもので、これはクルト・シュヴィッタースの数字詩を意識しつつ、音によってナンセンスを表現しようとしたものだという理屈は今適当に考えました。この曲だけでなく、なにを言っているのか聞き取れないようにしたボーカロイドの声というのはアルバム中で繰り返し使われていますが、これらはナンセンスによる空虚を狙ったものです。あるいは逆再生したらサイケっぽいという単純な理由かもしれません。よくわかりません。

4.クウノクウ

子供が街ではしゃいでいるのを見て、ほほえましいと思いつつもどこか空しさを感じる。おそらくそういう曲です。作っているときのことはあまり覚えていませんが、クラシックのサンプリングを試していた時期なのでピアノはラヴェルのクープランの墓からサンプリングしています。フレーズは少し編集したのですが、古い録音ゆえの音質の悪さがいい方に働いて、かなり自然に使うことができたと思っています。

7.朝が来る

これもクラシックからのサンプリングを試していた時期の曲でパガニーニの24の奇想曲からバイオリンのフレーズを引用しています。ディストーションとディレイにより大胆に加工されていますが、これはマーズの”Helen Fordsdale”のギターをこするノイズを違う楽器で再現できないものかと考えながらやったものです(結局あまり似ていない音になりました)。後から考えると、バイオリンの音を加工するアイデアは伊福部昭氏によるゴジラの鳴き声に影響されたところも大きかったかもしれません。

8.空にはもうなにも

すでに失われたものへの憧憬をテーマにした曲で、一つの曲としての完成度はこのアルバムの中では一番高いと思っています。ボーカルは出てきた順で行くとAメロのコーラスを歌うGUMI、BメロでONEの語り、続けて雪歌ユフ、サビで初音ミク、またAメロがあって2回目のBメロでは結月ゆかりと5種類の声を使ったわけですが、最初から一つの曲だったかのようにそれぞれがうまくなじんでいます。バックのトラックについても、ドラム以外のサンプルはパートごとに完全に切り替わっているのになめらかな印象を与えます。特にサビからAメロに戻る部分の開放感に満ちた展開は非常にうまくいったなと今でも思っています。タイトルは元ネタに空に関係する曲が多かったことから着想を得たのですが、中でも椎名もた氏の「そらのサカナ」をサンプリングしたことは強く印象に残っています。すでに失われたものへの憧憬というテーマと心情がリンクしてしまい、少し悲しい気持ちになりました。

12.余黒

最後の曲なのですが、実質的にはひとつ前の頭蓋の裏の壁がラストトラックです。じゃあこの曲はボーナストラックなのかというとそういうわけでもありません。なにかが終わったとしてもなにかは続いていく(非常に残念ながら)。そして続いていく方のなにかがこの曲なのだと思います。自分でもなにを言っているかよくわかりませんが、始まりがあって終わりがある、そういった構造に対する疑問符のようなものだと思ってください。音楽的なことを言うと、間奏のギターソロが気に入っています。ナブナ氏、ピノキオP、すんzりヴぇrPの曲からとったギターのサンプルを組み合わせているのですが、選出にバランス感があります。それと私の曲ではよくそうなるのですが、ボーカルが3連、ドラムがシャッフルで、ピアノは付点8分のフレーズを弾く、というリズムがバラバラな不安定感もお気に入りの要素です。

最後になりましたがマスタリングやアートワーク、元ネタの提供など、アルバムを作るのに協力していただいた方々、そして作品を聞いてくださった方々に感謝をして終わりたいと思います。

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