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#162 「さよなら」のない別れ3.11 曖昧な喪失 

東日本大震災から13年。
2011(平成23)年3月11日午後2時46分、職員室の教頭席で仕事をしていた。

教育長と教育委員会の部課長が新設校の新校舎を見学しにきていた時である。

校長は案内役として校舎内を巡回し、私は見学の一行が職員室へ来たら説明する役だった。

札幌中心部に位置する5階建ての校舎だ。

ぐらっと揺れた瞬間、めまいを起こしたかと勘違いした。

職員室にいた教員が「あっ、地震だ」と叫んだ。

みんなで手分けして、インターネットとTVで速報を見た。

すぐさま、自分の席の後ろにある緊急放送用のマイクを握り、全校放送を入れた。

「授業中ですが緊急のお知らせです。
只今、宮城県、三陸沖を震源とする地震がありました。
北海道への直接的な被害はないと思われますが、このあと報道内容を確認し、必要に応じてみなさんに放送で連絡を入れます」

みんな職員室のTVを眺め続けた。

津波が家屋や車を飲み込んでいく映像が流れ始めた頃に、これが国内観測史上最大規模の震災であり、甚大な被害であることを思い知ったのだった。

横浜、相模原、小田原、埼玉の親戚中に連絡を入れて関東の状況を確認した。

東京や横浜の親戚が福島県にいる縁戚家族の安否確認を済ませ、とりあえず安心できる状況だった。

できるだけ早めに親戚で手分けして家族の受け入れ準備をするということだった。

北海道にいてはどうすることもできないことのほうが多くて歯がゆさを感じた。

その後、毎年、学校の教育活動を通じて募金したり、生徒とともに鎮魂イベントに参加する形で哀悼の意を表してきた。

数年後に「あいまいな喪失」という言葉に出会った。

「さよなら」の言葉すら言えずに深い悲しみの淵を漂う遺族の心情が明らかにされていくことに胸が痛んだ。

13年がたった今もあいまいな喪失を抱えながら生きている人々がいる。
その後も全国各地で地震が起きている。

2018年、校長会が開催されたホテルで北海道胆振東部地震を経験した。
各校校長は遠隔地で情報収集したり自校へ臨時休校の指示を出すことに追われた。

電話回線の基地局が破壊され連絡できない地域もあった。

昼頃に札幌へ戻った。

液状化現象で家が傾いている地域もあった。
信号がついていない、ガソリンスタンドは車であふれかえっている、コンビニやスーパーの棚から食品がなくなっている・・・・といった状況を目の当たりにした。

地域の機能が麻痺するとはこういうことかと愕然とした。

今年は年始から能登半島地震に見舞われた。

亡くなった方々のご冥福を祈るとともに、あいまいな喪失に苦しむ方々や、生き残ったことに重圧を感じている方々の心の回復をひたすら願うのである。