#169 沈黙の寄り添い
ちょうど1年前、ある男子学生が大学1年の終わり頃に、悩みがあって研究室を訪ね来た。
他県からやってきて、入学金と授業料だけは親がギリギリの範囲で出してくれているということだった。
生活費の仕送りはない。
住居は親戚の家。
そこも経済的に厳しいらしく、まかない飯は無しで間借りしているだけだった。
複数の奨学金制度に落選。
1週間切れ目なく夕方から深夜にかけてファミレスとコンビニのバイト。
食事は、バイト先のまかない飯。
帰宅してからの就寝は午前1時。
4時間程度寝たらもう登校の時間。
近隣市から朝6時台のJRに飛び乗って2時間近くかけて大学に着く毎日。
しんどい毎日で心身が持たないので退学したいという話だった。
欠席が重なり、修得単位は10単位にも満たない状況だ。
重傷だなと思った。
苦しんでいる者、悩んでいる者に正論や精神論を話しても心に届かないかもしれない。
「なぜ?どうして?」という質問は気付きを与えるかもしれないが、もしかしたら責める言葉になってしまう可能性がある。
私がもっともらしいことを言っても、きっと彼の心に届かないかもしれないと思って躊躇した。
ただひたすら、彼の物語に耳を傾け「聞く」から「聴く」に徹した。
あれから丸1年がたち、2年生を終えようとしている彼と面談した。
元気にやっているという。
単位も順調に取れている。
もしかしたら卒業は遅れるかもしれないけれど、「絶対に卒業します」という言葉には力があった。
今は、私が紹介した新聞奨学生制度で働き、大学から比較的近いところで専用住居もあたっているので生活が安定しているという。
表情も明るく言葉も多い。
何がどう変わったか私から聞かずとも彼から話し始めた。
いろんな人に相談したが、みんなポジティブシンキング一色だったそうだ。
「前向きに考えよう!」
「為せば成る何事も!」
「生活を改めよ!」
「辞めて後悔するよりもやれるだけやろう!」
ボジティブを押し付けるために「!」マーク付きのマグナム弾やバズーカ砲で狙い撃ちするようなものだろう。
ところが、私ときたら、これといってアドバイスするわけでもなく、ただインターネットで検索して印刷した新聞奨学制の情報プリントをポンと渡しただけだ。
「先生が一番、考えを押し付けず僕に寄り添ってくれたような気がしました」と彼は言った。
それがきっかけで「為せば成る」と思えるようになったという。
何が功を奏するかわからない。
最初に私の所へ来ていたら、「なんて物足りない先生なんだ」と思ったかもしれない。
家族のことも含めて「寄り添い」ってなんだろうと考える。
その場で沈黙が続くと「こりゃマズイ!」と思って、次々と言葉を発することがある。
自分で言っておきながら、無駄な言葉が多かったと反省することもある。
情報過多は耳に入ってこない。
単なるノイズは心に響かない。
当人は解決策も見い出せず、言葉を浴びせられて気持ちが泥の中にどんどん沈んでいく感覚なのかもしれない。
私はそんな思いを忖度して沈黙を貫いたわけじゃない。
頭の中では叱咤激励の言葉がグルグルと渦巻いていたし、何かこの場にハマる極めつけのセリフはないかと脳はフル回転していた。
特に私は「ことばの力」を信じて生きてきたタイプだ。
それで救われたことが幾度となくあったからだ。
「信」という字は “にんべん” に “こと” と書く。
言葉にしなければ思いは伝わらない。
人が語る言葉は、信じるに足るものでなければならないと思い込んでいる私は、ある意味めんどくさいタイプの人種かもしれない。
でも、あの時はなぜか言葉を発することをためらった。
「俺の背中を見てついて来い」か?
でも、背中には彫りものも入れていないし何も書いていない(^0^;)
あの時、いくらでも言葉を発することはできたけれど、その言葉が彼の心の芯に突き刺さるとは思えなかったのだ。
言葉探しをしているうちに時間だけが過ぎていった感じだ。
感覚的な対応だったのがたまたまハマったとしか思えない。
しかし、それがいつでも正解とは限らない。
受け止め方は人それぞれだろう。
吉報を携えて訪ねて来てくれて、わざわざ礼を述べてくれたことが嬉しかった。
寄り添うことって何が正解かわからないな。
改めてそう感じた。
手探りは続く。
お借りしているイラストは、いつものイラストAC