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#164 面白半分日記35 誰にでも公平な1日24時間をどう使うか

「できません。私には無理です」
・・・・とは意地でも言いたくなかった。

教育課程に新科目が開設され、それを担当してほしいと打診された。

とは言え、「さてどうしたもんか・・・・」と授業の組み立てを思案している。
お手本となるものがないので何が正解かわからない。

自分のやり方を正解にする。

とりあえず教材になりそうなネタをかき集めている。

研究室の本棚を漁っているうちに、いろいろと整理しなければいけないことに気付いた。

しかも、不用意に古紙回収に出してはいけない学生の氏名が記載されたプリント類は、シュレッダーにかけなければならない。

そんなことに時間を費やして一日が終わった。

日頃から整理整頓していればこういうことにならないだろう。

地球人に与えられた1日24時間1年365日は皆に平等である。

学生たちによく言っている「時間泥棒」は私のことか?

■「時間は誰にでも平等」はウソ、という説

<まえがきより>
カネや生まれた環境は人によって違うが1日24時間、時間は誰にとっても平等だ。
これは本当だろうか?
違和感を抱かないか?
たしかに、1日は24時間だ。
しかしカネやいい環境に恵まれた人のほうが24時間を有効に活用できるはずだ。
世の中の便利なものを利用するにはカネがかかる。
だからカネ持ちの24時間と貧乏人の24時間の価値は同じではないはずだ。
移動手段ひとつとっても、それは明らかだ。
カネがまったくないなら、歩いて移動しなければならない。
しかし、カネがあればタクシーが使える。
タクシーに乗っている間に、勉強したり、仕事したり、いろいろなことができる。
移動時間が1時間あるなら、これだけで1時間の差がつく。
通勤時間をイメージしてほしい・・・・

えっ、結局、カネがないとダメってことか?

いや、二宮尊徳(金次郎)は、まきを背負い、歩きながらでも本を読んで勉強し、そして荒廃した村々を復興に導いたではないか。

そうだ、私だって食事中、入浴中、出退勤の移動中、トイレ中、睡眠中の寸暇を惜しんでニノ(二宮先生、スミマセン!)の真似をすれば、何かを成し遂げられるかもしれない!
そして銅像が建つ。