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桃の香り

  桃畑が柵でかこまれていたあの春の日に、彼は地面を覆い尽くすほどの桃の花弁と列をなすアリの大群、そして猫の屍体をみた。次の日にはまだ肉をとどめていたが、3日もすれば骨と皮だけになった。骨になれば、それは見慣れた標本のようにすっきりして、これが猫の骨かとまじまじと眺められるようになった。そのまた翌日には綺麗に土がかけられ、そこだけ不自然にふっくらと盛り土のされた塚となった。あの塚は、桃の畑がコインパーキングになることで綺麗さっぱり平らなコンクリート固めに舗装されたが、塚があった場所にはちょうど「軽」という文字が記されていたのでよい目印となった。

 しかしまた別のある春の日に、霞みはじめた「軽」という文字にひびが渡ってコンクリートが盛り上がり、文字は判読できないほどに崩壊した。「軽」の残骸には種々様々な草花の残りカスがはさまってひらひらと揺れ、その尾根はあいかわらずアリの横断に一役買った。このあたりではもう桃の畑は見かけなくなっていた。その多くはジャム瓶と同じ要領でコンクリートの蓋がされ、車と人とたまに猫の足で踏み固められた。桃畑の柵が取り払われてから20年が経っていた。あの猫もそろそろ二つめの塚をこしらえている頃だ。けれどもう、屍体に桃の香りはつかないだろう。

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