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ナイトハイクと庚申待

ナイトハイクとは夜行登山。私はご来光を拝む時間に登ることがあるので、先日図書館で面白いタイトルの本を発見し、読んでみました。それが

「ナイトハイクのススメ 夜山に遊び、闇を楽しむ」(中野純)

私は高校の時に山登りのクラブに入ったので、最初に真っ暗な中、夜行登山は近場の低山でしたが、それでも怖かったです。
それからは早朝のまだ暗い時間等はありましたがとんとご無沙汰で、実は真っ暗な時間に登ったのはご来光登山をしてからです。
でも夏場になると、暑い日中より、格段に涼しくて夜に登るのが快適なんですよね。

中野氏はナイトハイクを大きく4つに分類

トワイライトハイク(日が沈まないうちから歩き始め、山上で日の入りを見届け、夜の帳を体感しつつ、宵のうちに山を下る)

イブニングハイク(夜の始まりと共に歩き始め、宵の山を楽しみ、その夜の終電に間に合う時間に下山)

ミッドナイトハイク(夜遅くに出発して、深夜の山を満喫し、始発電車などで朝早くに帰る)

オールナイトハイク(夕暮れに歩き始めて翌朝に下山)

されていて、私のようなご来光登山はミッドナイトハイクに入るのでしょうか。時間的にはトワイライトが(4時~8時の4時間)、イブニングが(7時~11時の4時間)、ミッドナイトが(12時~5時の5時間)、オールナイトが(4時~5時の11時間)という感覚なのかなと思いました。

ただ、中野氏はソロハイクは避けるべきとあり、そうでしょうね。道を間違えたり、怪我したりしても日中と比べるとやっぱりリスクは大。
ただ、ナイトハイクの良さとして書かれているいくつかは私も実感できたことです。

「五感のすべてが鋭敏になり、落ち葉がそっと着地する微かな音にも、向こうの茂みにいる獣の息遣いにも、離れたところで咲く花の香りにも気づき、肌に触れる夜霧の一粒一粒すらも感じ取れる気がする」

その通りだと思います。日中(明るい時)は道を歩く時、100%視覚に頼って歩きますが、夜はライトをつけていても暗いので、私は視覚70%、その他の感覚30%(特に聴覚20%、嗅覚5%、皮膚感覚5%)という感じになるので、全身で歩くという感覚が確かにあります。ちなみに皮膚感覚とは風とかひんやりとした空気感ですね。
それはまたいかに普段、日常、街中で「漫然」と感覚が鈍いまま動いているのかということに気づくことでもあります。

修験道では千日回峰行とかありますが、あれもミッドナイト、オールナイトハイクで、自分自身の前身の感覚を磨くことであり、どこかに偏った感覚に偏重している状態から、バランスよく生き物としてのすべての本能によって生かされていることに気が付くことでもあるのかもしれません。
もちろん中野さんの本にも

「暗い森を長時間歩いて身も心もすっかり闇に浸かり切った後に山上で見る日の出はとんでもない。地平線や水平線からメラメラと赤い太陽が沸き上がり、『おお!』と思わず絵をあわせるうちにあっという間に直視できない眩しさになって頭を垂れる。その輝きは、夜が爆発して朝になるという感じでものすごい。そして、長い時間、闇に沈んでいた木々の葉や草や岩や土や周りのすべてが光り輝く」

という所がありましたが、本当にそうだと思います。
回峰行では雨や嵐という厳しさにも直面しますが、それを含めた自然の偉大さ、宇宙の強大さを、1個の生き物として全身で感じる意味もあるのだと思います。

早々少し驚いたのは、冒頭に徹夜ハイクのすすめみたいな感じで、かつて「平安時代に伝わり江戸時代に盛んになった『庚申待(こうじんまち)』は60日に1回徹夜する行事で、そうすると寿命が縮まらない」とありました。ホンマかいなと思ってググるとなんと大河ドラマのサイトに

そうか、そういえば長いこと徹夜してないな。
ナイトハイクも、夕方に現地について2時頃まで仮眠してるから「庚申待」じゃないし。もちろん普段は10時位には布団に入ってますからね。

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