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【小説】同人版『西荻窪・深山古書店の奇書』

2020年5月1日(金)、くるみ舎・スピカ文庫さまより
『西荻窪・深山古書店の奇書』が配信されます!
表紙イラストなど、ぜひくるみ舎さまのツイートよりご確認いただければと思います!
https://twitter.com/kurumisha/status/1250291064444866560

合わせて、どういう二人なのか知っていただければ…と思い、同人版のお話を作成いたしました。(同人版表紙イラストはしまだめりこさんにお願いしました)
西荻窪にある古書店「深山古書店」の店主と、古書店に配達に訪れる青年がどう出会い、どう近づいていくのかは配信版をお確かめいただければ幸いです!
(配信URLなど、詳細は後ほど「お知らせ」を追記いたします)

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 深山(みやま)古書店は、西荻窪の商店街を抜けて随分歩いたところにある本屋だ。
 駅を出て商店街を抜け、住宅街の細い路地をぐねぐねと曲がりながらしばらく歩く。二車線の都道が見えてくるころ、住宅街の中にぽつんと古びた木造二階建ての本屋が現れる。一階の店舗部分に張ってある色あせたテントには「深山古書店」とあり、傍目には営業しているかどうかが非常にわかりづらい。よく見れば店先にはワゴンが出ていて、日に焼け、色が薄れた文庫本がみっちりと詰まっている。日が沈む少し前になると、軒先にぶら下げられた裸電球を点ける男がいる。
 深山古書店という本屋があると知ったのは、配送ドライバーの仕事を始めてからであった。今まで何度となく通った道に建っているというのに、営業しているということすら認識したことがなかったのだ。
 本にはあまり馴染みがない。学生時代ならまだしも、父を亡くしたのをきっかけに働きだしてからは本との縁は一切なくなってしまった。けれど、今はほとんど毎日のように深山古書店に通っている。
 なぜか。理由は簡単である。深山古書店の店主に、ちょっとした仕事を頼まれているからだ。

「一本木(いっぽんぎ)さん、一本木明人(あきと)さーん、ちょっと。ボクの話聞いてます?」
 春の陽気にぼんやりとしていたら、声をかけられてはっと顔を上げた。
 目の前には、この古書店の店主である深山凛太郎(りんたろう)が居る。白い髪を後ろで一本に束ね、あぶれた髪を適当に三つ編みにして垂らしている。部屋の中であるのに帽子を被り、立て襟のシャツに寂びた色合いの着物を羽織った姿は和洋折衷でちぐはぐなのに、それが妙にこの店に似合っているのがいつ見ても不思議だった。
 深山古書店の一階、本のぎっしり詰まった棚と棚の間にあるレジカウンターの向こうは障子一枚を隔てて居住スペースになっている。いわゆる茶の間というやつだ。仕事の約束があって訪れたのだが、凛太郎の話を聞いているうちに少し前のことを考えて上の空だった。
「ぼんやりしていた。すまない」
「まあ凛太郎お兄さんは優しいからもう一回説明してあげますよ。奇書の話ならいくらでもできますし、質問があったら挙手してくださいね!」
 奇書。一般的には、珍しい本や奇抜な本を指して言う言葉だが、凛太郎の指す奇書はそのどれでもない。曰く、奇書というのはこの世界と異なる別の世界――いわゆる異世界に繋がる扉となる本のことを言う。異世界とは不可思議なことが起きる世界で、奇書を通して異世界へ行くことを楽しむために奇書を集めるコレクターもいるらしい。
 凛太郎は改めてえへんと咳払いをして、話し始めた。
「今回の奇書はこれです。虎の子を探すお話ですね」
 赤い表紙に、白い虎が数匹描かれている。数は五匹程度だろうか。ころころと転がっているそれは子猫と殆ど変わらない描き方であるように思う。表題は漢字であるようだが、見慣れない漢字が並んでいる。旧字か、それとも中国あたりの本なのかもしれない。
「迷子になった虎を探すだけのお話なんで、そんなに危ないことはないと思います。じゃ、一本木さん。今回も付き添いと護衛、よろしくお願いします!」
 仕事というのは、奇書の異世界に赴く際の付き添いと、店主の護衛であった。
 奇書の持つ異世界というのは、元となる奇書である本によって性質が異なる。おだやかな童話ならおだやかな性質を持つが、逆に言えば冒険劇などは危険が伴う世界であることが多い。一人で異世界に行くのは危険だと判断してコレクションのほとんどを眠らせていた凛太郎だが、とある小さな事件がきっかけになって、俺に護衛を依頼したのだった。
 依頼を請けた理由は二つある。一つは、自分の持つ技術が役に立ちそうだったからだ。物心ついてから高校を出るまで、槍術の道場に通っていた。棒状のものがあれば多少の危険はどうにかできるだろうという算段をつけている。もう一つは、報酬を弟の受験費用の足しに当てたいがためだ。父が遺してくれたものや、母の貯蓄もあるが、受験というのは受けて終わりではない。学ぶという本分が残っている。継続していくための資産はいくらあってもいい、と思っている。
「今すぐ行くか?」
「ボクはすぐでも行けますよ、一本木さんは?」
「準備はできてる」
 凛太郎が目を輝かせる。同時に、古書店の扉にかかっている営業中の掛札を即座に臨時休業を知らせる掛札に付け替えに走ったので笑ってしまった。

 深山古書店の二階には、凛太郎の寝室のほかに書斎がある。書斎の壁一面を本が埋め、それでも収納が足りず足元にも本が積み上がっているというのは中々圧倒される光景だ。
「支度しますね、一本木さんはどっかいい感じのところに居てください」
「わかった」
 凛太郎は書斎机にある本を適当に足元へ避難させ、机の上いっぱいに革で出来た敷物を広げる。これが奇書に入るために必要な魔法陣なのだと凛太郎が言っていた。書斎の中央に魔法陣と同じ柄のカーペットが敷かれていて、奇書の異世界へつながる扉を呼び出す仕組みになっているらしい。説明されてもよくわからなかったが、使っている本人が言うのであればそうなのだろう。
 準備の邪魔にならないよう、書斎机の横で待っていることにした。その間、ちらと机の上で行われている準備を見る。
 凛太郎は白い虎が五匹戯れている表紙の本を魔法陣の中央に置き、ペン立てから青い羽のペンを取り出して羽で表紙を撫でる。すると、本が淡く発光しはじめた。橙色の、例えるなら夕日のような光だ。発光がはじまると、凛太郎は早口に何かを唱える。どういう意味のある言葉なのか、聞いたことはない。
 直後、ごとん、と床が振動した。同時に、触ってもいないのに本がゆっくりと開く。誰かがゆっくり本を読みだしたかのように、ぱらぱらとページが捲れていく。床に敷かれた魔法陣が淡く光り、再びごとん、と揺れた。凛太郎が立ち上がる。発光は徐々に強くなる。ごとん、と三度目の揺れと同時に、床から扉が現れていた。
 扉は石造りで、緩いアーチを描いていた。アンティークというより、歴史建造物を思わせるような造りの扉だ。ノブはなく、丸い玉飾りに円形の金型がついている。
 凛太郎は即座に円形の金型を掴み、扉を開いた。内側は暗く、どこまで続いているのかはよくわからない。実際、扉の向こうにすぐ異世界があるわけではなく、扉に入って中をしばらく歩いているといつのまにか世界が切り替わっていることが多いのだと言う。
「はぐれたら困りますし、凛太郎お兄さんと手をつないでもいいですよ」
「いや、いい。帯を掴んでいいか?」
「えー、つれない……掴むならこのあたりどうぞ」
 着物の帯を掴む。そのまま扉の内側に一歩足を踏み出すと、視界いっぱいに暗闇が押し寄せてきた。
 周りが見えないままではあるが、ゆっくりと凛太郎が歩き出した。前に進んでいるつもりだが、実際にどうなっているかはわからない。電気のつけていない部屋をさまよっているような感じがする。
 扉から奇書までの間は、凛太郎のほうが詳しい。異世界に近づいていく感覚が何となくわかるのだと言っていた。経験が多い方が、その世界に近づけるのかもしれない。
 あとは、異世界に着くまで歩き続けるだけだ。先に進む凛太郎とはぐれないよう、着物の帯を掴みなおした。

 周囲の様子が変わったのは、凛太郎が歩き疲れて足を止めた瞬間だった。
 ぱっと電気が点くように頭上に明かりが差す。眩しさに目を閉じ、瞼の裏に焼き付いた光に瞬きを繰り返しているうちに急に周囲がざわざわと音を立て始めた。
 明るさに目が慣れてきて、ようやく目を開く。しっかりつかんでいた帯から手を離せば、凛太郎も眩しげに周囲を見渡していた。
 まず目に入ったのは、穏やかな風にさらさらと揺れる竹林である。足元は枯れた笹の葉で埋め尽くされ、歩くたびにかさかさと音がする。空を見上げても、竹林が深すぎて遠くにぼんやりと明るい部分があるのがわかるだけだ。
「到着しましたねえ。それで早速、一本木さんにお願いがあります」
 お願い。一体何をお願いされるのだろうと思えば、自分の先を歩いてほしいのだという。
「奇書の異世界から出るには、お話の通りに行動するのがお約束っすからね。これから先をしばらく歩くと、困った村人にお願い事をされるんで……」
「俺が引き受ければ良いわけだな」
 凛太郎は懐から扇子を取り出し、ぱらりと開く。日本一、と仰々しい文字が踊るそれでぱたぱた仰がれるのは、少しだけ可笑しい。しかし、凛太郎に付き添って奇書の異世界に居るのが仕事なのだから、雇用主のお願いを断る理由もない。
 先を歩くことを引き受け、竹林を歩き始めた。よく見れば、枯草が少なく、踏み固められた道がある。この道を辿って行けば、人のいる場所には着けそうだった。
「村人には何をお願いされるんだ?」
「ええと、その村には神様の白い虎がいるんです。子供が五匹ばかり生まれたばかりなんですけど、その子供をよその村の人間が攫ってしまうんですね」
「……迷子になった虎を探す話じゃなかったのか?」
 続きがあるんですよ、危ないことはないんで大丈夫です、と凛太郎が隣で鼻息を荒くする。こと、物語に関しては一家言ある男である。古書店の店主であるから当然なのかもしれない。わかった続きを聞くから、と返事をしたところで、目の前の竹藪ががさりと揺れた。
 思わず、手で凛太郎を制していた。一歩下がらせ、前に出る。何が現れるかと思っていたら、困った様子の少女が現れて体の力が抜けた。
「もし、旅の方ではございませんか?」
 少女はうるうると今にも泣きだしそうに目に涙を溜めている。凛太郎は俺の背中を軽く押し、対応を求めている。なるほど、これがお願いをする村人であるらしい。
「そうだ。後ろにいる連れと共に旅をしている」
「お願いがございます。どうか、連れ去られた虎の子を捜してくださいませんでしょうか」
 少女は零れ堕ちそうな涙を堪えながら、神様である虎が子をお披露目してくれたこと、お披露目の祭りによその人間たちが混じっていたこと、よからぬことを企む集団によってボヤ騒ぎを起こされた隙に虎の子が攫われてしまったことを一息に話した。
「村の者総出で探しておりますが、人が足りません。どうか、お引き受けいただけませんか……」
「引き受けた。虎の子を捜せばいいんだな」
 泣き顔が晴れ、ぺこりと頭を下げられた。凛太郎は後ろで日本一と書かれた扇子をひらひらと舞わせている。この後何をすれば良いのか知っている男は少し気楽なようである。
 少女から村の場所を聞き、別れた。子虎を取り戻して村へ連れて帰れば、この本のお話を満たして元の世界に帰ることが出来る。逆に言えば、それが為せなければいつまでたっても帰れない。
「凛太郎。どこへいったらいい?」
「これはね、灯台下暗しってヤツなんです。犯人はまだ村にいるんすから」
 なるほど、村から人がいなくなったすきに悠々と逃げようという腹らしい。邪悪だ。思わず眉間に皺を寄せてしまう。物語とはいえ、悪意は悪意である。
「あの子にも教えてあげるべきだったか?」
「いえ、お話では旅人がすることになってますからいいんです。じゃ、いきましょう」
 凛太郎が先に立って意気揚々と歩き出す。子虎を狙った人間がどれくらいいるかは知らないが、手ぶらでいってもいいことはないだろう。
 使わないにこしたことはないが、と思いながら周囲を見渡す。剪定されたらしい若い竹が転がっているのを見て手に取った。軽い。少し短いが、使えないことはない。少しの安心感を手に、凛太郎の背を追った。

 ボヤ騒ぎを起こされたという少女の言葉通り、村はどこか焦げ臭いにおいがしていた。人の気配は少なく、確かにこれなら子虎を連れて逃げ出すことは容易に見える。
「一本木さん。泥棒はあの燃えた建物の横にある小屋に隠れてて、子虎は二匹と三匹に別れて別の場所にいるんすよ」
「手分けするか?」
「ボク貧弱なんで無理ですよ! さっきの続きですけど……虎は子供とはいえ神様の子供ですから、自分たちで逃げ出そうとするんです。それで、今は泥棒と取っ組み合いをしているところで……」
 泥棒がいる、と凛太郎が言っていた建物の扉が大きな音と共に倒れた。同時に、内側から小さな虎が二頭、わっと外に飛び出てくる。よく見れば、倒れた扉の上には目を回して気絶している人間がいる。どうやら二頭がかりの体当たりを受け、扉ごと倒れてしまったらしい。
 駆けてきた子虎は、俺と凛太郎を見てぴたりと動きを留めた。どうやら見慣れない人間に、泥棒の加勢が来たと思っているらしい。誤解されて体当たりを食らうのは避けたいところだ。
「二頭出てこられたんで、この二頭を連れて三頭のところに向かうんです」
「三頭がいるのは?」
「ここの……村長の家だったかな、燃えた建物の奥にあるでかい家です!」
「よし、走るか」
 子虎はすっかりこちらを泥棒だと思い込み、牙をむいている。大きさは少し大きい猫くらいだが、腕は太く、爪は鋭い。まともに相手をしたら怪我をするのはこちらだろう。幸い、子虎は積極的に襲い掛かってはこない。じりじりと距離をとり、離れたついでに凛太郎の指した家へ向かった。
 村長の家、というのもまた無人だった。祭りの内にここに隠れたのか、それとも内側から手引きがあったのかは物語を知らない俺にはわからない。幸い、扉には鍵がかかっていない。そっと開ければ、入り口近くに竹で編まれた籠があった。
「これこれ、これに虎が入ってるんで……」
「凛太郎、せーので持ち上げよう。早めに済ませたほうがいい」
 中からはがさがさと何かを引っ掻く音がしている。籠の上にはずっしりとした瓶が置いてあって、小さな虎の力では開きそうもない。家のなかは薄暗い。この虎を取りに、いつ悪人たちが来てもおかしくない気がしている。
「非力な古書店主なんですけど……」
「紙の束持ち上げられるなら大丈夫だ、いくぞ」
 せーの、と小さく小声で息を合わせて瓶を降ろす。水がたっぷり入っていたそれは随分重かったが、深山古書店に三日おきに運ぶ古書がぎっしりつまった段ボールの重さとそう変わらなかった気がする。
 籠を開ける。中からは、虎が二匹零れ出てきた。三匹いるはずではなかったか、と凛太郎を見れば、凛太郎は顔を青くして部屋の奥をじっと見ている。反射的に、竹の棒を持って振り向いていた。
 虎を抱えた男がひとり、こちらを睨みつけている。武器らしいものは持っておらず、小脇に虎を抱えているだけだ。そろそろ残りの二匹を連れた男と合流する頃合いだったのかもしれない。敵意は隠さず、まっすぐこちらに向けられている。
 こういうのは、先手必勝である。
 相手が口を開きかけた瞬間、膝から下を狙って突いた。狭い室内では棒を振り回すことは出来ず、突くのが最も早い攻撃になる。まさか向かってくると思っていなかったらしい男がよろめいた瞬間、身体ごとぶつかった。
「凛太郎、虎を連れて外に!」
「いやさすがに置いていけないっすよ! ていうか、虎!」
 よろめいたところに体当たりを食らった男は、打ちどころが悪かったのか床で伸びている。その隙に男の腕に抱えられていた虎を抜き取り、意識を取り戻す前にさっさと外に出た。五匹の子虎をこの村に戻すのが、あの村人の頼みであったからだ。

 五匹揃った子虎は、互いに顔を見合わせてころころと睦まじく転げ合っている。さっきまで箱に閉じ込められていたとか、人間に体当たりをして扉を壊したとは思えない。
「でっかい猫みたいですねえ、虎って」
「ネコ科だから間違いじゃないだろう」
 さて、これをどこに帰すべきかと周囲を見渡せば、いつのまにか五匹の虎のそばに大きな白い虎が控えている。それぞれの無事を確かめるかのように鼻と鼻を触れ合わせ、身体を舐めてやり、大きな前足でかき抱くようにしている。どうやら、この大きな虎がこの村の神様であるらしい。
 五匹の虎が、それぞれ俺たちをじっと見上げる。体当たりか、と思ったのだが、牙をむく様子はない。
「これで一応、物語の通りではあるんすけど……」
 凛太郎もまた、不思議そうに子虎を見ている。子虎たちは何かを確かめるように俺たちのまわりをぐるぐると周り、それから脛に体をこすり付けてきた。ふわふわとした毛と、やわらかい体の感触がある。
「……ありがとうってことですかね?」
 ごとん、と足元が揺れた。書斎で、異世界へつながる扉が現れる直前にあるのと似た種類の揺れである。これが帰還の合図で、三度の揺れで元の世界に帰ることができる。
 村人たちが、子虎が帰ってきたことに気が付いて大きな声を上げる。人が徐々に集まってくる中に、俺たちに手伝ってほしいと言った少女の姿もあった。目が合った瞬間、俺たちに向かって大きく手を振るのが見えた。再びごとんと揺れがある。
 大きな虎が、天に向かって吠えた。びりびりと空気が震え、同時に目を覚ました泥棒たちが村の外へ逃げ帰っていく。子虎たちは親を習って、同じように転に向かって吠えた。村の人たちが、それを微笑ましく見守っていた。
 三度目の揺れと同時に、視界が真っ白に染まる。ざわざわとした音が遠ざかっていく感覚があり、次に目を開くと深山古書店の二階に戻ってきていた。

 ふわふわとした毛の感触が、まだ脛に残っている。
 書斎に戻ってきた、と理解した瞬間、体にどっと疲れがのしかかってきた。まさか人間と対峙するとは思っていなかったし、足払いがうまくいってよかったとも思う。何より、凛太郎に何もなくてよかった。
「一本木さん、かあっこよかったっすねえ~! 頼りになるなあ!」
 日本一、とはやし立てながら、凛太郎は扇子をぱたぱたと扇いでいる。雇用主は暢気なものである。いや、青い顔をしていたからそれなりに怖かったのかもしれないが、無事に帰ってきたのだからよしとしよう。
「本来は、子虎が大暴れするお話なんですよ。悪いことをしてもうまくいきませんよ、みたいな……」
 重厚な表紙から大人向けな物語なのだろうと思っていたが、内容は思いのほか子供向けだったらしい。なるほど、と頷けば、凛太郎はころころとした虎が表紙を飾る本を俺に差し出してきた。
「日本語訳の本が出てるんすよ。読みますか?」
 本とは、縁が遠い生活が続いていた。仕事に忙しく、新聞やニュースもろくに見ていない。天気予報がせいぜいだ。
 深山古書店に通うようになってからは、なるべく休みを作るようにしているし、凛太郎に本の話をかいつまんでしてもらうこともある。凛太郎が気に入っている本の話、過去に読んだもの、書斎の棚に収まっている本の全て。
「今、ここで読んでもいいか?」
「それなら下でおやつとお茶も出しましょ、ボクも読みたいのがあるんで」
 凛太郎は足元に積み上げていた本をごっそり持ち上げる。量が違う。水を飲むように本を読む男なのだ。奇書であろうが何であろうが、物語を楽しんでいるのだろう。
「この中から次にいく奇書を決めようと思ってるんすよ。次が楽しみだなあ、ねえ一本木さん?」
「そうだな、楽しみだ」
 本当にそう思っているのか、と絡まれながら階下へ降りる。俺の手元には一冊、凛太郎は十数冊。楽しみにしているのは本当なのだが、凛太郎が張り切って本を読みすぎてしまわないよう、今は黙っておくことにした。