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【小説】僕たちはあの日より

あらすじ:五十嵐が用務員をやめてから約半年が経った。撮影アシスタントのバイト帰り、牧から突然「写真の撮り方を教えてほしい」というメッセージが届く。何を撮りたいのか聞き出してみれば、牧家で犬を飼いだしたらしい。久しぶりの再会を繋いだ子犬を撮影するお話です。

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 瞼の裏に焼き付いたフラッシュが、まだ眩しい。
「助かったよ、アシスタントが誰も捕まらなくて」
「いえ、お仕事回してもらえて助かりました」
 新しい土地に引っ越してきて数か月、写真展を通じて知り合ったカメラマンのところで時々アシスタントをしている。それ以外は、適当に倉庫作業に入ったり、清掃の派遣をしたり、色々だ。
 アシスタント、と言いつつ実際にやることは一人では難しい作業の補佐程度で、さほど難しくも大変でもない。プロの撮影を見ながら給金が貰える、いい仕事だ。
「片付けは一人で大丈夫だから、今度また手伝ってくれない?」
「空いてる日でいいなら」
「全然いいよー、助かる」
 次もよろしく、と言うオーナーの言葉と同時に渡された茶封筒を受け取り、自分の荷物を背負って小さく頭を下げた。お疲れ様でした、という声を背中で聞きながら、スタジオを出た。
 外は暗い。日が沈むのが早くなったし、最近は暑いと感じる日もほとんどなくなったような気がする。何とはなく作業着のポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出して、電源を入れた。
 画面には通知が一件。牧清一という名前と、「写真の撮り方教えてほしい」という短いメッセージが並んでいる。届いた時間はと見れば、十分ほど前だ。
 珍しい、と思った。
 牧清一は、高校の頃の同級生だ。昨年、地元に帰って働いている間、職場が同じだった。牧は教師で、俺は用務員だったけれど、再会を喜んでくれたことを覚えている。
 再会までの間、高校を卒業してから十年間、俺は牧に自分の撮った写真を送り続けていた。自己満足的なそれを気味悪がらず、怖がらず、むしろ歓迎していた牧は奇特な人間だと思う。
 その牧が、俺に写真の撮り方を教えてほしいと言っている。
 いいよ、とメッセージを返しかけ、指を止めた。
 写真の撮り方を教えて、というのはよくある連絡だ。例えば結婚式で撮影係を頼まれたとか、子供の運動会とか、何かしらのイベントで写真を撮る必要があるパターンと、単純に趣味として興味を持っていて、詳しいであろう俺に尋ねてくるパターンの二つがある。どちらを目的としているかで対応が変わるから、教えて、だけの連絡は悩ましい。
 何より、はじめたての人に対してあれやこれやと口うるさく言ってしまいそうな気がして、カメラを紹介するのはあまり得意ではないのだ。撮影方法なんかは特に。
 ただ、相手が牧なら別だ。頼られているというのが何だかくすぐったいし、先生にものを教えるというのは貴重な体験のような気がする。気安く話せる牧だったら教えやすいだろう、というのは俺の希望だ。
 喋った方が早いだろうとメッセージから通話へ切り替える。コール音が一回、二回、三回。四回目の途中で、もしもし、と声が聞こえた。
「もしもし、五十嵐だけど……今、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。僕もどう聞こうかなって思ってた」
 歩きながら、話し始める。スタジオから駅まではしばらく歩く。辺鄙なところにあるから、急に飛び込んでくる撮影のアシスタントの手配は難しいのだとオーナーは言っていた。そういう時には五十嵐君に頼めばいいけど、とも言われ、自由な時間が多い人間でいてよかったのかもしれないと少し思った。
「写真。何撮るの?」
「犬!」
 犬、と思わず復唱してしまった。
「最近飼い始めたんだけど……あ、僕じゃなくて母さんが。それがすごい……かわいくて……」
 電話の向こう、牧の後ろでぴゃんぴゃんと小さく吠える声がする。なるほど、まだ小さい犬らしい。
「こんなにかわいいのに、すぐ大きくなっちゃうからさ。写真に残したいんだけど、どうにもうまく撮れなくって……ごめんな、いきなり」
「いや、全然。いつ空いてる? そっち帰るから、一緒に撮ろう」
 俺も犬に会いたいし、と添えれば牧は小さく笑った。
「土日ならどこでも大丈夫、今結構自由な時期だから」
「じゃあ来週は?」
「大丈夫、じゃあ来週で。駅まで迎えに行くから連絡して」
 わかった、と返事をして電話を切った。
 ポケットに端末をしまう直前、ぶるりとメッセージの着信を知らせる振動があった。そのまま開けば、牧から子犬の写真が届いていた。
 なるほど、かわいく撮れないと牧が言っていた理由が少しわかった。
 耳が大きく、手足はすらりと伸びて華奢だ。尻尾の付け根から先に白い模様があるのが面白い。難しい理由は、いわゆる黒柴だからだろう。黒いもの、というのは光を吸収するからきれいに写すコツがいる。
「……笑ってるじゃん」
 ごま次郎です、と添えてあるメッセージには、犬を膝に乗せてご満悦の牧の写真が添付してあった。牧のお母さんが撮ったらしい。これは、かわいく映っている。どちらも。
 牧がこの犬くんをかわいいと思っているのなら、かわいく映してやりたいだろう。
 とにかく、来週の支度をしなくては。まずは天気を調べて、犬を連れていってもいい場所を調べて、ロケーションを万全にしておきたい。駅へ向かう足は自然に速足になり、来週は何から話そうかとそればかりを考えてしまった。

 週末はすっきりとした秋晴れの空が広がった。牧家の黒い柴犬――牧ごま次郎君、生後五か月、元気いっぱいの男の子――を連れて撮影をするには、良い日になったと言える。
 駅に着いた俺を出迎えたのは、ごま次郎をスリングに入れて抱える牧だった。ごま次郎はおとなしく牧に抱っこされていて、きょとんとした顔で俺を見上げている。
「久しぶり」
「わざわざありがとな、……あれ、カメラは?」
「牧、ケータイちょっといいやつだろ? あれで十分」
 動き回る犬を撮るには、大きなカメラは取り回しが難しい。慣れない機械を持って歩くより、普段から使い慣れている機械を使う方がいい。それに、最近のケータイはカメラの画質を売りにしているだけあって画素数が高い。
「撮影ってどこ行く?」
「城跡の公園は?」
 城跡の公園というのは、市内中心にある大きな公園だ。遊具と広場が分かれていて、ベンチも多いから休憩には困らない。
 事前に調べた場所はいくつかあった。そこそこ広くて、危ない物がない場所となると、自然に公園や河川敷が候補に挙がる。
「いいと思う、あそこは犬も入れるから」
 助手席に俺が座り、ごま次郎は後部席にあるケージの中でちょこんと座っている。おとなしい性格なのかもしれない。
「この辺でも犬連れて入っちゃダメな公園あるけど、あそこは大丈夫だから。僕も五十嵐と同じ所を言うつもりだった」
 調べておいたんだ、という牧はゆっくりと車を発進させた。目的が同じなら、同じ結果を出すのは珍しいことではない。けれど、同じ場所を考えておいたというのは、少しうれしかった。
 故郷は秋色に染まっていた。木々は緑から赤や黄色の葉に変わり、空は高く、そろそろ渡り鳥たちの季節が来る。
「紅葉、もう少しでピークってところか」
「そうだね、日も短くなったし……紅葉に日照時間が関係する話しようか?」
「聞こうかな。よろしく、先生」
 駅から公園までは車で十分もかからない。車内はにわかに牧の教室となり、俺は紅葉の仕組みを聞きながら少しの間うとうとした。
 ここに来るまでに電車の中でも眠っていたはずなのに、なぜか眠くなる。牧の柔らかい声が、葉緑素が栄養を作って、葉から幹にそれが渡って、越冬の準備が出来たら無駄なエネルギーを省くために葉が落ちる、と懇切丁寧に教えてくれている。わかるような、わからないような。
 車がゆっくりと止まった。後部席のケージがかちゃかちゃと音を立てる。ごま次郎が立ち上がった音らしい。着いたのだから目を開けないといけないのだけれど、心地よいからこのままでいたいような気もする。
「五十嵐ー、五十嵐くん」
「……起きてます」
「お前、高校の時もずっとそれで切り抜けてたよな」
「そうだっけ……」
 そうだよ、と牧は笑った。そうだったかもしれない。よく覚えていないけれど、牧が言うならそうなのだろう。
 車から降りる。牧はごま次郎にリードをつけて、地面に降ろした。今まできょとんとしていた顔が、足元の草を踏みつけてから徐々に明るくなる。なんというか、目が輝いたような。
「ごま次郎、いくぞー」
 牧の声を聴いているのかいないのか、ごま次郎はすでに走り出していた。

 公園のベンチに腰掛けて並び、牧のスマートフォンを借りる。カメラの設定確認だ。
 ごま次郎はリードで動ける範囲をうろうろしている。草の中をふんふんと嗅ぎ、何か見つけたらしく小さな前足が草を掘り返す。仕草が無邪気だ。
「まず……そうだな、明るいところで撮ろう」
 ごま次郎はまだ小さい。例えば寝ているところとか足元にいるところを撮ろうとすると、自分の影で隠れてしまう。牧はなるほど、と言うように小さく頷いた。
「眉毛のところにピントを合わせたら顔が撮りやすいと思う」
 画面上をタップする。常に動き回っているから、はっきりとピントは合わせづらい。ごま次郎はまろ眉毛のような模様があるから、そこに合わせれば顔周りをはっきり撮ることができるだろう。何もしないよりは良いという程度だが、逆に眠っているときや何かに集中しているときはそこを狙えばいい。
「姿勢を低くして、目線の高さに合わせてやるといい」
 カメラの位置を下げる。ほとんど地面すれすれに手を下げたら、構ってもらえると思ったのかごま次郎が飛び込んできた。端末を落とさないように気を付けながら、小さな頭を撫でてやる。黒い巻尾がふるふると揺れていた。
「写真を撮られるといいことがあるっていうの覚えてもらうと、いい顔が撮りやすくなるんじゃないかな……俺も付け焼刃の知識だけど、そんな感じ」
「わかった。じゃ、実践だな! 五十嵐、リードもって」
「……ごま次郎は大丈夫?」
「大丈夫、人見知りしないから」
 牧からリードを渡され、立ち上がる。ごま次郎は先に進むということが大事らしく、特に気にしていないようだ。牧へスマートフォンを渡し、俺はごま次郎に引かれるまま歩き出す。
「牧。そんなに難しく考えずに、好きにやっていいから」
 誰かに見せるための撮影と、自分の記録のためにする撮影は、そもそも目的が違う。まずは自分が残したい写真を、納得するレベルで撮影できるようになれば十分だ。
 ゆっくりと歩きだす。ごま次郎は前方へ走り、時折気になるものがあるのかぴたりと立ち止まる。飽きればまた歩き出し、興味の赴くままという感じだ。止まっているかと思えば走り出し、子供らしい好奇心に満ちている。牧は撮りあぐねているらしく、うーんと小さく唸った。
「……どうする?」
「いつもは走るとついてくるんだけど……」
「じゃあ、走ろうか」
 え、と牧が目を丸くした。
「牧のところまで、俺とごま次郎が走ればいいんじゃないか」
「あ、僕が待ってるのか。追いかけるのかと思った」
「手振れが大変なことになる」
「じゃあ、あっち行ってるから」
 牧は小走りに少し離れたベンチの前にしゃがみこみ、頭の上で大きなマルを作った。もういいよ、ということらしい。
「ごま次郎、あっちまで走るぞ」
 言っていることはわからないだろうに、声が聞こえると耳をぴんと立ててこちらをじっと見つめている。
 リードを緩くたわませて、首輪が食い込まないように気をつける。屈伸をしてから、走り出した。
 ごま次郎は突然はじまった競争に速度で答えてくれた。最初はちらちらとこちらを見ながら走っていたのに、速足が楽しくなってきたらもう前しか見えていない。牧を見ている。瞳がきらきらと輝やいて見える。なるほど、これは撮りたいだろうなと思った。一瞬だ。一瞬の輝きは、眩しい。
「ごまー、ごま、おかえり! えらいぞー!」
 夢中で走ってしまった。俺もごま次郎も、息を切らしている。牧は飛び込んできたごま次郎を抱き抱え、背中を撫でた。
「あ、五十嵐! 見て、結構良いと思う!」
 遠くにいる俺とごま次郎が並んでいる写真からはじまり、手振れ、草、紅葉、ごま次郎の足らしきもの、俺のコート、ごま次郎の鼻、ごま次郎を見て笑う俺、牧に飛び込む直前のごま次郎のアップと写真が続いた。躍動感に溢れすぎている。
「なんで俺の写真……」
「被写体が大きいほうが撮りやすいかなって」
 なるほど一理ある。賢い、と牧を褒めた、少し照れていた。
「五十嵐、疲れたろ。休憩しよう」
 久しぶりに走ったからなのか、体が重い。ごま次郎もは、は、と短く息をしている。牧はボディバッグからシリコンの折り畳み皿を取り出して、水を注いだ。ごま次郎の給水も兼ねているらしい。
「他にはどんな写真撮った?」
 自分の鞄からペットボトルを取り出しつつそう聞けば、牧の目が光った。待ってましたとばかりに、牧は話し出す。
「うちに来た日の写真からあるんだ、見て」
 ケージに入っているごま次郎は、まだ耳が半分寝ている。日付は三か月ほど前だ。そのあとは、はじめて家の中を探索して座布団の上で眠っている姿や、おもちゃのぬいぐるみを抱えて寝ている姿が続く。顔が黒いから、寝ているとどこがどこだかわからない。
「はじめて散歩にいった日とか、ボールで遊べるようになったとか、そういう写真ばっかりだけど……誰かに見せたくてさ」
「……インスタとかやってみたら?」
 牧は神妙な顔で、いんすた、と復唱した。ごま次郎は水を飲み終え、牧の足元で丸くなって眠っている。さすがにはしゃいで疲れたらしい。
「写真をシェアするサービスで、友達にアルバムを見せる感じ」
「それを使うと五十嵐にも見せられる?」
「うん、できる。使い方教えるよ、アカウント持ってるから」
 ごま次郎が足元で寝返りを打つ。自分の端末をポケットから取り出し、アカウントの作成からアプリの使い方、俺はどういう部分を楽しんでいるかをかいつまんで説明し、お互いのアカウントIDを交換した。
「五十嵐の、こっちにある写真もいいなあ」
 牧は俺の写真を見るのに忙しい。俺は寝ぼけ眼のごま次郎が膝に前足をかけてふんふんと鼻で鳴くものだから、抱き上げて膝に乗せている。牧の言う通り、人見知りはないらしい。
「ごま次郎、小さい時の写真も可愛かったよ」
「だろー、どれもかわいい……もちろん今日もかわいい」
「全部かわいいって言ってる」
 親ばかだなあ、と笑えば牧は照れたように笑った。
「小さくてかわいいのは一瞬だから撮っておかなきゃ、なんて思ってたけど、大きくなってもかわいいよなあ」
 牧は目を細めて、俺の膝の上にいるごま次郎の鼻先を撫でている。生後半年。牧の家に来てからはまだ三か月だという。耳もぴんと立ったし、しっぽもくるりと巻いた。あどけない顔も、凛々しくなったのだなと写真で見ただけでも思う。
「たぶん、これからもずっとかわいいな」
 親ばかかなあ、と牧は笑う。俺は親ばかだよ、と答えてやる。
そうだ。小さな犬が子犬になっても、そしていずれ老いても、愛おしく思う気持ちは変わらないだろう。
 俺の気持ちと同じだな、と思った。
 これも、ずっと俺の中にあるものだ。わざわざ伝えようとは思わないが、ただそこにあるというのは似ているかもしれない。
「ごま、もうちょっとしたら起きると思う」
「子犬だから元気になるのも早いのかな」
「……起きる前にさ、撮ってもいい?」
 膝の上のごま次郎のことだと思って、背筋を伸ばした。牧がぷっと噴き出し、違う違うと首を振る。映りこまないようにとしたことだったけれど、何か違うらしい。
「ごまを抱っこしてる五十嵐が撮りたいんだよ」
「……そういうの言われると、俺固まる」
「はは、ごめん」
 じゃあ撮るよ、とカメラがこちらを向いた。これも牧の中に残れるのだろうか。そう考えると、つい頬が緩む。すきなひとの中に、この一瞬が残るというのは何だかくすぐったい。
 シャッター音。牧は指で小さな丸を作って、にっこり笑った。シャッター音が聞こえたのか、膝の上で寝ていたごま次郎が顔を上げ、ぴゅうと鳴いた。膝から降りて、巻尾を小さく振る。
「遊びたいって」
「じゃあ、次は俺に撮らせて」
 牧はもちろん構わないとリードを持って立ち上がる。遊びの再開に、ごま次郎はぴゃんぴゃんと吠え、紅葉の中を駆けた。
 カメラを起動して、一人と一匹にピントを合わせる。
 俺の中にもこの一瞬が残るのだ。それはなんだか、とてもよいものであるように思う。一人と一匹のじゃれ合う向こう、雲一つない秋晴れの空が広がっていた。