ヤクザのせいで結婚できない! ep.98

 いない。
 朱虎がいない。
 さっきまで居たはずなのに、どこにもいない。
 こわばった指を何とか引きはがして銃を投げ捨てた。立ち上がろうとしても足に力が入らなくて、あたしは這いずるようにして手すりへ近づいた。
 暗い海と波の音があたしの体ごと引きずり込んでいくみたいだった。
 震える指で手すりに縋りつく。じわりと涙がにじんで、見下ろす海がぼやけた。

「ウソでしょ……やだ、やだよ……」

 船が大きく震えた。
 サンドラはもう逃げられただろうか。
 あたしも行かないと。
 でも、もう動く気力がない。
 空っぽになった頭の中で繰り返し繰り返し、あたしがあたしを責め立てる声が響いた。

 なんであの時撃たなかったんだ。
 あたしが引き金を引きさえしたら、朱虎は助かってて、今もここに居たはずなのに。
 最悪だ。最低最悪のヘタレだ。
 あたしのせいで、朱虎は――

「――志麻さんっ!」

 不意に肩を強く揺さぶられた。

「えっ……?」
「しっかりしてください! 怪我は?」

 あたしはぽかんと覗き込んでくる相手を見上げた。

「蓮司さん? なんで……」
「環から連絡を受けまして。志麻さんが乗っている船が爆破事故で沈みかけている、と」

 微笑んだ蓮司さんは、相変わらず引くほどイケメンだった。作業着みたいな制服姿で、それがまたイケメン度を上げている。

「海上保安庁との連携に時間がかかりましたが、間に合ってよかった」

 あたしはイケメンスマイルに見とれてから、ハッとして蓮司さんの襟首を掴んだ。

「朱虎がっ、朱虎がここから落ちたの! レオと戦っててっ、一緒に落ちたのっ!!」

 蓮司さんの表情がさっと厳しくなった。 耳に着けたインカムのボタンを押すと、きびきびと喋る。

「岩下です。甲板南の端から男性二名が海へ落下とのこと、至急救助願います」

 あたしは祈るような気持ちでぎゅっと手を握り合わせた。振り返った蓮司さんがまた安心させるような笑みを浮かべた。

「大丈夫。さ、僕らもここを離れましょう」
「は、はい……ったぁ!」

 少し身じろぐと途端に忘れていた痛みが襲ってきて、思わず悲鳴が漏れた。全身ずきずきして、どこが痛いのかすらわからない。

「す、すいません。すぐに……」
「ああ、いいです。無理しないで」

 ふわりと浮遊感がして、あっという間にあたしは蓮司さんの腕の中にいた。いわゆるお姫様抱っこだ。

「ひゃあ!?」
「しっかり捕まって」

 慌ててしがみつくと、蓮司さんは足早に歩き出した。

「なるべくそっと行きますが、傷に響いたらすみません」
「ぜっ、全然大丈夫です……ていうか重いですよね!?」
「いいえ、まったく」
「ウソ! いっつも朱虎に言われるもん、『また太ったんですか』とか『普通に重いです』とか……」

 言葉が詰まった。また涙がこぼれそうになって、ぎゅっと唇をかむ。
 あたしを抱く腕に力がこもった。

「……あなたをこんなに悲しませる人間がいるのは辛いな」

 背を撫でる手が優しく気遣いに溢れていて、あたしはぎゅっと蓮司さんの胸に顔を押し付けて声を押し殺した。
 その時、不意にインカムがピリリリ、と鳴った。

「はい、こちら岩下。……了解しました、ありがとうございます」

 インカムの通信を切った蓮司さんがあたしを見下ろす。綺麗な眉がぎゅっとしかめられていた。

「志麻さん。……残念ながら」
「え」

 ぎゅっと冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
 まさか。

「不破さんはたった今、救助されたそうです」
「……へっ?」
「つくづくしぶといですね、彼は。意識もあるそうで……どうなってるんでしょうね、まったく」

 蓮司さんの言葉を理解した瞬間、ふっ、と全身の力が抜け――あたしはそのまま意識を手放した。
 


「驚いた。本当に生きてますね」
「……あんたの面ァ、二度と拝みたかねぇと言ったはずですが」
「僕だって好んであなたと顔を合わせたくはありません。むしろ死んでくれていた方が良かったんですがね」
「そいつァどうも、あいにくだったな」
「志麻さんは僕が助けました。今は病院で治療を受けています。……本人は自覚していないようでしたが、酷い怪我でしたよ」
「……」
「あなたは志麻さんの護衛でしょう。それなのに彼女はなぜあんなに傷ついて泣いていたんですか。何してたんですか、一体」
「泣いてたのか」
「ええ、僕の胸でね」
「……一言多いぜ、あんた」
「僕が一言多いならあなたは言葉が足りなさすぎる。どうして彼女にもう少し言葉を尽くさなかったんですか。彼女はあなたの言葉足らずのせいであれほど傷ついたんです」
「……お嬢が、俺のことであそこまでするなんて思ってもみなかった」
「あなたはつくづく嫌味な人ですね。志麻さんがなぜ行動したのか分かっているくせに、しらばっくれるのはやめていただけますか。もし本当に分からないというなら常人の感性が欠如しているのでは?」
「いい加減にしろよ。あんたにそこまで言われる筋合いは」
「志麻さんに恋する男としてこのくらい言う権利はあると思いますがね。言っておきますが先ほどの言葉は本心ですよ。彼女をあんな風に傷つけるあなたは死んでいてくれた方がよかった、と真剣に思っています」
「……」
「他人に対してこんなに腹立たしいのは初めてです。こうしているだけで不快極まりないですが、志麻さんがどうしてもあなたの容体が知りたいというので」
「……悪かった」
「はい? 謝る相手が違うのでは?」
「分かってる。……ケジメはつけるつもりだ」
「どうぞご存分に。ああ、いつでも代わりは引き受けますよ。以前あなた自身の口から、志麻さんのことを頼むと言われておりますし」
「撤回します。他の誰に頼んだとしても、あんただけは嫌だ」
「あなたも僕と同じ不快感を味わっているようで少しは溜飲が下がります。それでは、僕は志麻さんのところへ戻りますので、失礼。どうぞ、お大事に」

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