見出し画像

Over the dream 剣

夢で見た光景が、現実に目の前に広がったことは何度かある。
だからもう、これが疑わしい出来事であるとは思わなかった。
「ああ、ここだ。ここだったんだ」
探し求めていた場所を見つけたかのように、なんとなくほっとした。
石段の上から見下ろす景色、気配…
私は、あの日夢で見た場所に立っていた。

2017年頃に見た夢。記憶に残った「桜井遺跡」という名。
当初思いついたのは、大阪府島本町の桜井駅跡一帯だった。
その時点で、富田林市の桜井遺跡についても目にしていたことは間違いない。
けれど何故か、自分の意識がそこへ向かなかった。

今になって、何故その地を訪れてみようと思ったのか、理由は分からない。
歴史を調べながら訪れたことのある場所が、付近に点在していたことに気がついたということもある。
でもそれだけではない。
気がついたら行っていた。
そういうのがピッタリな気がした。

少し小高いところから見下ろしていた景色。
自分の周りには、青々とした木々が広がっていた。
そんな記憶を頼りに地図を眺めて、そこが叡山寺である可能性が高いと決めつけた。
聖徳太子が眠る墓所であるなら尚更、そんな事が起こっても不思議ではない。
叡山寺には以前訪れた事がある。
今度は“そのつもり”で立ってみよう。
そう思っていた。
だけどその前に、妙に気になる羽曳野市にある壺井八幡宮へ寄ってみることにした。
初めての土地、近づくにつれ道は狭くなる。
ハラハラしながらも、無事にたどり着いた。
真っ先に目についたのは、井戸だった。

文字通り壺井という名の井戸。大きい。
源氏の武将所縁の井戸は、石段の下に構えていた。
その大きさは、それがいかに重要なものであったのかを物語っていた。

剣を思った。
宇宙神霊ARIONという存在が残した予言詩。
その中に、剣を黄金の壺に浸せというものがある。
この井戸の存在を知った時、それを思い出した。
更に詩は、浸す時に中を覗くなと続ける。
中を覗かないとは、文字通り井戸を覗かないということだろうか、それとも、詳しくを探るなということだろうか。
そんな事を考えながら石段を登った。
お参りを済ませ境内を歩く。
ここは、河内源氏発祥の地。
あの、源頼朝も義経も、ここがルーツ。
心のどこかに、気にかかることはあったと思う。
帰ろうと、鳥居を潜ろうとした時、それを感じた。

ー叡山寺じゃない。ここだー

迷う事なくそう思った。
石段を少し降りて眼下を見下ろす。
間違いない。
駐車場は数箇所あるらしく、たまたま井戸の側に停めてこの石段を登った。
この石段を使わなければ、気がつかなかっただろう。

自動販売機は古代ならば井戸なのだろうか。
以前そんな事を考えた。
夢の中にあった自動販売機はこの井戸だろうか?

もう一度井戸の横に立つ。
中を覗いちゃいけないのかな。
少しそんな心配をしながら考え続ける。
いや、考えても答えなんてないんだ。
そう思った。

その時、夢では草彅剛さんがふと浮かんだ。
だから夢の中で感じた強烈な悲しみの理由は、その解散だったのかもしれないと思った。
でも今はそうではない気がしている。
それはその名のまま
クサナギがよぎったんじゃないか。
この井戸の壺に浸した剣は草薙の剣?

河内源氏発祥の地で草薙の剣を思う。
自然と源義経を思い浮かべる。
あの悲しみは何だったんだろう。
今も続くそれは…これを越えられたら分かる気がして気持ちを整理する。

源義経、幼名牛若丸。
平氏全盛の頃、平清盛にその命を狙われるが、母常盤御前の器量により命拾いをした。
鞍馬寺で修行に明け暮れ、腹心となる武蔵坊弁慶と出会ったのは、京の五条大橋。
笛を吹きながら軽い身のこなしで現れる源義経のその描写は、日本のヒーローにこの上なく相応しい。
その最後が悲劇であることも。

そんな状況になっていても、実のところ、源義経についても源平合戦についての歴史も、詳しくを知らなかった。
いつもの事ながら、気がつけば様々な点が寄り集まって、それぞれの時代で歴史を紡いでいる。
そんな景色が見えてくるだけ。
今回もそう。
五条大橋はおそらく付け替えによって、今とは若干位置が違うと言われている。
そうであっても、源融の河原院にほど近いことに変わりはないだろう。
源融も笛を吹いただろうか。
私の心に浮かぶ笛の音の中には、五条大橋の義経の姿も、もちろんあった。

新羅三郎義光伝来「薄墨の笛」というものがある。
静岡県の鉄舟寺に現存する、約700年前の横笛だ。
源義光が最初の持ち主。義光は笙の名手だったという。
新羅三郎というのは、滋賀県園城寺の北院の鎮守新羅明神をまつる新羅善神堂の神前において元服したことにちなむ。
義経が五条大橋で吹いていたのは、この笛だろうとみられている。

多田満仲(源満仲)は初代清和源氏・源経基の嫡男。その4男頼信が河内の守に任ぜられ、香呂峰と呼ばれる地に館を構え、河内源氏の源流となる。
2代頼義の長子が八幡太郎義家、3男が新羅三郎義光である。
頼朝、義経兄弟の父義朝は、義家の曾孫にあたる。

頼義は奥州の賊の平定を任ぜられた際、岩清水八幡宮にて戦勝祈願を行った。
その奥州での戦中、飲み水に事欠き、祈りを込めて岩に矢を射たところ清水が湧いて一同の喉を潤す事ができた。
そのお陰で勝利する事ができたとして、凱旋時にその清水を壺に入れて持ち帰り、井戸の底に埋めた。
その井戸が壺井である。
また岩清水八幡宮の霊験ありと神霊を勧進し、壺井八幡宮を創建した。
その際この地を壺井と改めたという。

義光はこの奥州平定の応援に向かう時、自身の命に万一があった時のことを考え、足柄山で自身の笙の恩師の子息にその一才を伝授したという伝承がある。

薄墨の笛は、義朝の手から常盤御前へ、そして義経へ渡されたという。
義経が久能寺へ寄進し鉄舟寺に現存する由来を示す話は複数あり、その信憑性に翳りを与えるものの、笛の材はその頃のものであるらしい。
義経が愛用した笛である可能性は高い。
それは何より、これから明かされるであろう秘密も証明してくれるだろう。

薄墨の笛は、2度の修繕の甲斐あって、今もその音色を聞く事ができる。
笛は吹く人を待っている。
私には、そう思えてならない。



手塚治虫は20世紀を代表する偉大な漫画家だ。
刃に心で忍。

これも2017年頃の事だったかもしれない。
当時お世話になった方が、「草薙の剣は、大切な人を守る為の剣なんだ」と、何度も何度も繰り返されていた。
その事を思い出し、今になってその言葉の真意が、私の中で紐解かれることとなった。
私の中ではそのもっとずっと前から語りかけられていた、その想い。
数十年の時を超えて繋がれた、その剣の想いをようやく知った。
草薙の剣は祈りだった。
それを、倭姫は日本武尊に授けた。
倭姫の祈りが込められた剣を携えて、日本武尊は旅立ったのだ。

伝説と化した弁慶の話。
五条大橋で武士の刀を狩り集めていた。
999本を手にして、1000本目に現れたのが義経だった。

昔々、太刀を1000口作って、忍坂という場所に納めた皇子がいた。
五十瓊敷入彦命。
今は敢えてその年代には触れないでおく。
第12代景行天皇の同母兄となっている。

1000口の太刀はアカハダカとも言われ、鉄剣であった事が想像される。
ただ、私のイメージは独自の軌道を描き、丸裸にされて痛がっている神話の兎を彷彿とする。
岐阜県の伊奈波神社の祭神が五十瓊敷入彦命であることは、それがあながち検討はずれでもない事を物語っているのだろうか。

伊奈波神社の相殿に物部神社がある。
祭神は物部十千根。
これを射園神とも呼んだことがあったようだ。
物部十千根は五十瓊敷入彦命が納めた1000口の太刀を、皇子亡き後奈良県石上神宮で管理した人。
それ故イソノカミと呼ばれたものか、あるいは、物部氏の祖神をそう呼んだものかもしれない。

奈良県大和高田市に石園坐多久虫玉神社がある。
現在の祭神は、建玉依比古命 建玉依比売命 (配祀)豊玉比古命 豊玉比売命であるが、元々は、多久都玉命・多久須玉依比売命ではないかとされる。
多久都玉命は神魂の御子となっている。

石園はイハソノと訓じると書かれたものがあるらしい。
では岐阜のイソノカミや石上神宮とは別物かと思えば、付近に磯野という地名がある。
いつ頃ついたものかはっきりしないところはあるが、源義経の愛妾であった静御前の母磯野禅尼の出身地であるという伝承がある。
それ故、鎌倉から京へ返された後、この地へ来て亡くなったとされ、その伝承地も散見される。
このような伝承地は、全国に幾つかあるが、位牌があるという香川県の長尾寺の伝承は頭ひとつ抜け出ているように思う。
ただひとつ気になることはある。
この神社は、大きな蛇の胴体部分にあたるという言い伝えがある。
大蛇の頭は三輪山、尾は葛城の長尾神社。
石園坐多久虫玉神社は龍王社と呼ばれていたというから、全く根拠のない話でもなさそうだ。
長尾神社の祭神は吉野の土着氏族の水の女神井光姫とその父。
たまたまなのか、静御前が出家して終焉を迎えたのも長尾寺という。
そしてまた、義経を思い浮かべる事となった。
二人の出会いの地、京の神泉苑で静御前が奉納したのは雨乞いの舞。
こうして縁をたどってみると、うってつけの舞人だったのだろうと想像がつく。

石園坐多久虫玉神社の祭祀に関わる古代氏族として、加茂氏と秦氏があがる。
当麻葛城地方の繊維技術氏族との接点もあるかもしれないと唱える方がいるそうだ。
葛城に繊維技術集団が…
いないわけがないのだ。
私は自分の足で何年もかけて巡った神社仏閣の数々を思い起こしていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?