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西田哲学はなぜ難しいか?

年末なので、このnoteに色々書いている「西田哲学」について、少し振り返りました。

まずは、色々な人が述べているし、私も感じている

西田哲学は難しい!

について、原因を探してみました。

私の結論は

西洋哲学の影響があるのに
日本的な問題に向き合った

のが大きな理由だと思います。

まずは、問題への向き合い方です。西田哲学では

抽象的論理
具体的論理

という二つの論理を考えます。しかしながら、多くの西洋哲学では

理想化した条件での
抽象的論理だけ

で議論しています。これは、プラトンの「洞窟の比喩」にもありますが

人間の力は限られたものしか見れない

というあきらめから

理想化した問題をきちんと解く

発想です。しかし、西田幾多郎は、禅の修行もし

大乗仏教の誰でも仏の力

という発想の持ち主です。そこでは

複雑な現実と直接向き合う
具体的論理

での思考を求めています。つまり

抽象的論理は太陽と地球だけの単純化
具体的論理は太陽系全部を一度に考える

という難しさがあります。

さて、これに加えて問題を複雑にするのが

「哲学」の道具

です。もう少し言うと

西洋哲学の道具に依存

しているため、色々な無理が出ています。

例えば、議論の舞台として「世界」を考えますが、これを

弁証法の場

として表現しています。確かに

今あるモノがぶつかり新たなモノを生む

という状況は、西洋哲学では弁証法が代表的なモノです。しかし、私たちが持つ「弁証法」のイメージは

「正」 と 「反」 
がぶつかり
「合」になる

という1対1のイメージです。私の感触では

システム的な相互作用での
継続的なシステム変化

という方が良いかと思います。

こうした

西洋哲学の枠の影響

が、西田哲学の理解を難しくしていると思います。

今まで書いたnoteを見直し、考えを深める。これは、年末の有効な過ごし方だと思います。

#年末の過ごし方

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