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芸術原論「わしらはみんな牛やんけ」

あらゆるお笑いには「型」がある。さまざまな音楽にも「型」がある。そもそもヒトの暮らしのなかにいろんな「型」があって、「型」なくしては社会は成り立たない。


まず漫才の話からはじめましょ。世の中には中川家が好きな人がいれば、チュートリアルに夢中な人も、EXITにキャーキャー言ってる人もいるでしょう。ジャルジャルの笑いはちょっと難しいけどたまにめちゃめちゃおもしろいときあるよね、とか。好みは人それぞれではあるしょう。なるほどどんなことに笑いを感じるかにはけっこう幅がある。だからこそいろんなスタイルの漫才師に需要がある。ただし、誰の漫才であれその漫才を愉しむお客の反応はその瞬間ごとに、笑うか/笑わないか。二択です。笑う客はみんな同じ個所でドッカンドッカン笑う。他方、笑わない客もいる。ただし、変なとこで笑う客がいたら、まわりの客は不気味を感じ、漫才師は困惑してその客を叱りますよ、「そこは笑うとこちゃいまっせ」とか「なんの笑いやねん」って。たまにそういう困った客もいますね。


笑うか/笑わないか。まさにON/OFF 、0/1。コンピュータと同じですね。なお、漫才の3分~5分のネタのなかにはいくつものおもしろポイントが埋め込まれていて。だからこそ観客は寄せては返す波のように繰り返し笑う。ON/OFF 、0/1。人の脳は意外とたんじゅん。わたしらは霊長類とか言って威張ってますけど、しかしわたしらとて(ある意味では)ひらひら動く赤い布を見て興奮し突進してくる牛とたいして変わらない。つまり漫才師はみなさん闘牛士で、わたしら観客はみんな牛でんねん。


若い女の子たちのかわいい文化も、髪型、メイク、しぐさ、はたまたアニメ声まですべて記号ですね。かわいい顔してあの子たちもまた闘牛士で、男の子たちはみんな翻弄される牛ですわ。

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もちろん銀座のホステスさんもまた闘牛士です。
しかも、この世界の牛たちはなかなかの銘柄牛揃いです。歴史は夜作られるちゅうのはこういうことですわ。



世の中は記号だらけでできていて。居酒屋の店員、コンビニバイト、駅員、タクシー運転手、キャバ嬢、テレビのディレクター、噺家、ロックンローラー・・・どんな職業人にも「型」があって。逆に言えば、ロックンローラーみたいなロン毛の鮨職人なんていないでしょ。(たとえイタリアンのシェフにはいたとしても。)女子高生みたいな裁判官もいない。もしも相撲の力士がコンビニバイトしてたら笑うでしょ。こういう話はいつまでも続けられます。だからこそ漫才師がなにかに「型」を見出し誇張してまねすることによって、観客はその「あるある!」に気づいてゲラゲラ笑う。そもそも男が女装すれば笑いが取れるのは定番ですね。さらには中川家は「大阪のおばちゃん」のなかに「型」を見出し、彼女らを(愛情たっぷりに)類型化・記号化することによって、どっかんどっかん笑いをとる。


さらに話を進めるならば、音楽にもさまざまな「型」があって。しかも、音楽に対するリスナーの反応もまた言わば牛的なものがある。それが証拠に、ベートーヴェンだろうが、ワーグナーだろうが、ビートルズだろうが、ヒップホップだろうが、ハウスだろうがポストパンクだろうがシューゲイザーだろうがブレイク・ビーツだろうがドラムン・ベースだろうが、一曲のなかには無数の快感ポイントが埋め込まれていて。そのジャンルに深くしたしんでいる人同士はおおよそ同じ個所に快感を感じ感情を揺り動かされ興奮する。それほどには人それぞれの多様性はなく、むしろ一様性への傾きが強い。つまりリスナーもまた牛ですわ。

これね、人によっては夢のない話に聴こえるかもしれないけれど、しかし心配には及びません。それであってなおヒトは漫才に、音楽に、異性にあるいは同性にけっして飽きることはありません。

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