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坂本龍一さんが既存の音楽をすべてぶち壊し、(ポップミュージックの世界で)未知の音楽を作りまくっていた頃。

なんだなんだなんだ、こんなにも音楽が破壊的で創造的だった、カオスでクリエティヴな時代はいったいどんな条件で生まれたの? まずは坂本さんとは無関係な1977年の話題からはじめましょう。UKでわざわざ女王陛下在位25周年に合わせて、ヤマ師のプロデューサーMalcolm McLarenが、The Sex Pistols の"God Save the Queen"をリリースして、イギリス市民を祝福気分を糞まみれにして、スキャンダルを起こし、ガキどもを熱狂させた。デザイナーのVivienne Westwoodが、Pistolsをポップアイコンにすることに一役買った。一般にこれは英国がとことん不景気だったことと結びつけて解説されます。ただし、Pistolsはあっさり解散。


しかしその後ポップ・ミュージック・シーンは百花繚乱に爆裂的におもしろくなった。1979年、NYCではBrian Enoがオムニバス・アルバム No New York をプロデュースして、既存のロック観をぶち壊し、その破壊のなかからリスナーは自由のよろこびを知った。他方、UKではRough Tradeレーベルがマイナーながら大胆な活動をはじめていて、1980年のPop Group と Throbbing Gristleのアルバムは日本のポストパンクファンに衝撃を与えた。しかもPop Group 、Rip Rig +Panic、Pig Bag、Maximam Joy、挙句の果てに Throbbing Gristle、はたまたレゲエのダブがむちゃくちゃなことをやりはじめた。新宿のディスコ、ツバキハウスがおもしろかった頃だ。



さて、ここからが坂本さんの話だ。実はぼくはとくにYMOのファンというほどではないけれど、しかし1980年代初頭の坂本さんからは目が離せなかった。当時坂本さんはBrian Enoを、Throbbing Gristleを、Art Bears ~Fred Frithを意識し、高橋悠治を師と仰ぎ、実におもしろい立ち位置でたくさんの仕事を通じてリスナーを驚かせ興奮させてくれた。以下、その時代の坂本さん自身の作品とプロデュース作を紹介しましょう。

坂本龍一『War Heads』(1980)


坂本龍一『B2 UNIT』(1980)


矢野顕子『ごはんができたよ』(1980)


Japan 『Taking Island In Africa』(1980)


フリクション『軋轢』(1980)


坂本龍一『Front Line』(1981)


坂本龍一『左腕の夢』(1981)



Phew『Phew』(1981)


清水靖晃『Dall Play Ⅰ』(1981)


清水靖晃『Dall Play Ⅱ』(1981)



坂本龍一率いるバンド B-2 UNIT スタジオ・ライヴ(1982)メンバーは立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子。

ダンスリー『End of Asia』(1982)


矢野顕子『ただいま』(1982)

矢野顕子『愛がなくちゃね』(1982)



伊藤つかさ『恋はルンルン』(1983)


David Sylvian"Red Guiter"(1984)


David Sylvian "Ehether Wall"(1984)

David Sylvian "Brilliant Trees"(1984)


おもえば1980年、YMOは8か国19公演をこなし、1981年アルバム”BGM”と”TECHNODELIC”を発表。坂本さんはさきほど紹介したソロアルバム”B2UNIT ”に続き”左腕の夢”を発表、さらには忌野清志郎さんと組んでシングル”い・け・な・いルージュマジック”をリリースし、1983年夏には映画『戦場のメリークリスマス』の撮影にラロトンガ島へ旅出す大忙しな時期だった。


どんなに才能がある人もなにかを創造することは、その時代、その場所、そこから生まれる空気感、そしてそのときの同時代の人たちとともにある。ぼくは坂本さんのこれらの作品を聴くと、いつもあの時代を鮮烈に生き直す。



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