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自転車に乗って

 それは恨みと憎しみの塊みたいな自転車だった。湿度の高い空気は溶けたバターの様に身体に絡まり、信号が変わるのを待っている間だけでも汗が噴き出る。全てが苛立たしい。
 車道で信号が変わるのを待つ。背後のプリウスが苛立たしげに車間を詰める。黄緑色のバーテープが街灯に光る。カゴを乗せる為のフレームは紫メタルだ。車体はステッカーで覆われている。異様に明るい前照灯がアスファルトを照らす。ビカビカと光る赤いバックライトがプリウスを挑発する。信号が点滅する。横断歩道を渡るカップルがちらりと俺と自転車を見る。
「あれ、マウンテンバイクじゃないよね?」
 女が言う。
「ロードバイクでもない、タイヤが太いし」
 男が頷く。
「でもハンドルの形はロードバイクだね、なんでか小さいけど」
 そうだ、この自転車はロードバイクじゃない。マウンテンバイクでもない。こいつは恨みと憎しみの塊だ。負の感情の化け物だ。
 信号が変わる。俺はその暗く湿っぽい負の感情の化け物にまたがり昨夜の食事(カロリーは正義だ)と言う罪に対する償いの様にペダルを踏む。脂質と糖質の十字架を引きずりゴルゴダの丘へ。社会で息をする事を咎められない為の労働。全てがクソだ。エリエリレマサバクタニ。俺を裁くのは俺だ。まったくのクソだ。
 ルイガノMv2-Pro。この自転車だった恨みと憎しみの塊、そいつの本当の名前だ。いわゆるニミベロと呼ばれるスポーツタイプの自転車で、そう悪いものじゃない。小径車の癖にディスクブレーキを搭載している生意気な自転車だ。恐らく当時でも10万はしただろう。正確な値段は知らない。当時ヒモまがいの生活をしていた頃に、その女の婚約者から貰ったからだ。
 その自転車を恨みと憎しみの塊たらしめているのはコンポーネントパーツだ。行く宛のない恨みと憎しみで走る自転車に俺がしたのだ。俺のエゴイズムで改造された自転車は本来のお洒落な街乗りスタイルを破棄させられた。狂ったように走る恨みと憎しみになった。
 俺はプリウスの前を走る。車道の自転車マークの上を走る限り俺には正義があり、プリウスの苛立ちは悪だ。どれだけ煽ろうと関係が無いし俺は歩道を走る事が無い。轢けば死ぬのは俺だが社会的に死ぬのはお前だ。文句なら国交省に言え。だができる限り早く走ってやる。お前と違ってペダルを踏む回数が多いんだ。
 クオータのコバルトと言う自転車がある。フルカーボンの軽量なロードバイクでエントリーグレードとは言えセール価格でも15万ほどだった。つまり通常であれば20万はくだらない。中古の原付なら買える値段だ。かつて俺が持っていた自転車がそれだ。ディスクブレーキでは無いが、よく走る自転車だった。
 俺はその自転車を買う2日前まで、バイクの大型免許を取ってハーレーダビッドソンを買う気でいた。だが何を思ったのか煙草をやめて自転車に乗ろうと思った。完全な気まぐれだった。別に天啓を得た訳じゃない。なんとなくそう思っただけだ。
 自転車屋に入り、安くなっているそのフルカーボンの自転車を買った。別に何だって良かった。自転車に詳しくも無いし、調べたところで何も分からない。こだわれるポイントすら待ち合わせてない。
 だが俺はその自転車を気に入った。
 様々な場所を走った。
 神奈川からフェリーで房総半島に渡り、外房を回って都内に戻った。輪行で霞ヶ浦も走った。琵琶湖に至っては友人と連れ立って二回ほど周った。浜名湖にも日帰りで行った。ロードバイクは快適に俺を遠くに連れて行ってくれた。
 ロードバイクは良かった。自分の足で出せる最大限の速度。単に走るより快適だ。橋を駆け上った時に開ける景色は最高だ。風が吹いて汗を吹き飛ばす。道のある限りどこへでも行ける。そう思った。ガキの頃、自転車に乗ったってそうは思わなかったのに。
 クオータのコバルト、そのロードバイクは毎日の通勤にも使った。何度もパンクしたし転んだりもした。鉄ゲタと呼ばれる重いホイールをゾンダ社の軽量なものに変えた。コンポーネントをシマノ社のティアグラ装備からアルテグラに変更した。
 ペダリングもシフトも快適になった。最高の気分だった。俺の恋人は美しくなった。青い車体に合わせて青いバーテープに変えた。タイヤも青いものに変えた。そして盗まれた。仕事を終えて駐輪場に降りると自転車は無くなっていた。コンポーネントを変えてから2週間後の事だった。
 翌日、警察に届け出たが見つかる事は無いだろう。年間何台の自転車が盗まれるか知らないが、一件一件を追っているほど暇でも無いだろう。そうでなくても治安の悪い街なのだ。警察官は面倒くさそうにメモを取っていた。俺は警察署を出た。世界はクソだ。誰でも知っているし、警察は俺より良く知っているだろう。
 盗難車が無いかネット上の自転車販売サイトやフリマサイトをしばらく探してみたが類似のものは見つからなかった。パーツが剥ぎ取られ、車体はどこかに捨てられたりしているのかも知れない。世界はクソだ。だが世界がクソなのは俺がガキの頃にモノを盗んだり騙したり壊したりしてきたせいだ。受け入れるよ。世界はクソだ。俺のせいだ。仕方がない。
 クオータに乗ってから長らく放置していたルイガノMv2-Proを引っ張り出した。かつてクオータに付いていたティアグラコンポーネントを磨いた。ルイガノに張り付いたシマノ社のソラシリーズを外した。安い工具を何度もダメにしながら外した。
 真っ黒に錆びたソラコンポーネントを乱雑に転がしながら思った。誰が盗んだのか分からない、そして盗んだそいつは捕まる事が無く、マヌケな事に盗品と知らずに金を払って買った奴が捕まる可能性と共にその自転車で走り、警察はそいつの脇を退屈そうにパトロールしてすれ違う。そしてその警察官が真夜中に自転車を転がす俺を止める。職務質問だ。俺が金髪だからか?自転車が派手だからか?世界はクソだ、闘う価値がある?前半分には同意するよ。
 俺はルイガノの車体にシマノ社のティアグラコンポーネントを無理矢理に押し込んだ。盗まれたロードバイクの名残りだ。つまりこれはその宛先のない恨みと憎しみだ。
 だがロードバイクのコンポーネントはミニベロには合わない。当然だ。フレームのサイズが全く違う。リアについたギアはトップから3つまでは使えない。使えばチェーンが外れる。同じ理由でフロントに至っては変速が出来ない。忌々しい。ペダルを踏む度に恨みと憎しみが増えていく。だがその行き先は無い。
 俺がこの恨みと憎しみの塊に乗って琵琶湖や浜名湖を周る事は無いだろう。
 だが仮に盗まれたロードバイクが発見された所で、再びそいつに乗る可能性も低い。変わり果てた恋人を前の様に抱ける訳が無いだろう。部屋の飾りになったクオータのコバルトはきっと俺を憎しみのこもった目で睨み、恨みがましい影を落とすだろう。そして俺はそれを振り払う様に恨みと憎しみの塊にまたがって繰り返しペダルを踏む。
 わかっている。盗まれたロードバイクは見つからない。仮定の絶望を話したって仕方ない。だからこそ宛先の無い恨みと憎しみを具現化させた実体のあるミニベロに乗り続ける。今すぐにでも投げ捨ててしまいたい感情の化け物に乗ってペダルを踏み続ける。
 それに乗る理由なんてものはとっくの昔に無くしていた。単なる執着だ。自転車だったそれに乗る為に自転車だったそれに乗っている。自分に罪を被せる様に粗悪な脂質とタンパク質、そしてだらしない糖質をアルコールやカフェインで流し込んで代償としてペダルを踏む。最低の自家発電。肉体的にも精神的にも健康には程遠い。エリエリレマサバクタニ。俺がアギーレ、俺こそが神の怒りだ。
 信号が夜の風を青く染め抜く。俺はルイガノだった自転車のペダルを踏む。音を立てて前に進む。ガソリン車が俺の脇をスレスレで通り過ぎる。引っかけられても構わない。肉体が死ぬのは俺だが社会的に死ぬのはドライバーだ。俺が恨みと憎しみの塊になって転がった後はきっとガソリン車に載せられるだろう。もうペダルを踏まなくて済む。
 影は重かった。
 


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