ぶつかる!

 その日もその女はいなかった。
 その女、と言うには彼女は若く……いや、幼かった。恐らく歳の頃は16,7だろう。小さな身体とビクビクした態度の所為で中学生になったばかりの13歳にも見える。私は彼女を探して広い駅舎を歩き回っている。
 彼女にぶつかりたい。
 私は謂わゆる「ぶつかりおじさん」と呼ばれる存在だ。駅や街で他人ー主に女性ーと肩をぶつける動きをする。理由は単純で、腹が立つからだ。
 彼女たちは自分で避けようとしない。避けて貰える、道を譲ってくれる、肩を引いてくれる……などと、とにかく「相手がどうにかしてくれる」前提で歩いている。その甘ったれた精神が許せない。
 男にぶつからない?それは違う。男にはぶつかれないのだ。彼らは常に気を張り、予測して先に動く。無用なトラブルを起こさない為だ。不良ーつまり優しさ、思いやりの世界だ。それが女には無い。いつも、常に、自分では動かずに相手が何かしてくれると思い、そうでは無かった時に「相手を」咎める。自分が悪いとは夢にも思わない。
 私にぶつかられたくなければ先んじて避ければ良いのだ。だが彼女たちにはそれが出来ない。すれ違う瞬間に肩を引くのでは遅い。数歩ほど手前から逸れる準備をしていなければダメだ。つまり常に気を張っていない限り避けられない。相手がどうにかしてくれると言う考えを捨てない限りはぶつかられ続けるだろう。自分の所為だ。
 あの日もそうして私は彼女にぶつかろうとした。土砂崩れの様に人々が流れる駅構内を俯いて歩く、見るからに惨めな−恐らく恵まれた学園生活を送っていないであろう小さな女。学園と言う敷地に足を運べても、学校と言う閉鎖した社会には身を置きたくないと全身が言っている。
 そんな女ですらこうした場所では強者となり、相手の優しさに依存した動きをする。身長、性別、制服と言う装備。不幸な弱者を気取ったところで自身が傲慢な強者であることは思いもよらない。お前の学園生活に於けるヒエラルキーが最下位だとしても、この社会に於けるヒエラルキーでは遥か上位だ。
 私は速度を早め肩の力を抜いた。そしてぶつける瞬間に肩を固める。そうすれば彼女は吹き飛び、驚いた表情でこちらを見る。そして逡巡して私を咎める目つきになる。負け犬の目だ。他人にぶら下がって生きる癖に文句を言う不様で惨めな負け犬の目だ。私はその目が見たくてやっているのだ。期待で胸が高鳴る。ヒエラルキー上位の女学生を負け犬にしてやる。
 ぶつかる瞬間に私はほんの少し肩を引いてタメを作り、その肩に力を込めながら女学生に向けた。
 しかしその肩は空を切り、私は前につんのめるようにバランスを崩した。咄嗟に後ろを振り向くと、私がぶつかろうとした女学生は俯いたまま軽く頭を下げるとそのまま人混みの中に消えてしまった。
 私がぶつかりを失敗した?そんなバカな。女と言うのは絶対に自分から避けないのだ。接触の瞬間に荷物を残したまま肩を引く事を避けると形容する頭の悪い生き物なのだ。他人の−男の優しさと思いやりに依存しきった愚かな負け犬なのだ。そんな女が私のぶつかりを?
 私は急いで引き返し彼女を探したが、その小さな女学生は黒と灰色の土砂崩れに巻き込まれて見えなくなってしまった。
 私は婆然として立ち尽くした。幾人かの男たちに舌打ちをされ、負け犬どもがぶつかっては非難がましい目で見てきた。
 その時の私は女学生にぶつかれなかった怒りと恥ずかしさで紅潮していただろう。体温が上昇していくのを感じながら胸に誓った。彼女にぶつかるまでは他の女にぶつからないと。
 あれから幾日が経ったことか。もしかしたらもう彼女は制服を着ていないかも知れない。しかし私は今日も駅をー黒と灰色の土砂崩れを泳ぎながら彼女を探してぶつかろうとしている。他の女には目もくれない。彼女にぶつかりたい。彼女にぶつかり、あの恨みっぽい負け犬の目で私を睨ませたい。
 ふと視界の端に背丈の低い制服の少女が見えた。私は急いでそちらに向かおうとした。その瞬間、後ろから歩いてきた小柄な男とぶつかってしまった。男は中途半端に伸びた金髪を掻きながら「痛ェなァ」と不明瞭に言った。
 殴られるだろうと思った。ぶつかりおじさんをやっていればそんな事は何度もある。ぶつかった女の連れ合いに殴られるのだ。だがそこで謝ってはいけない。謝れば相手は余計に逆上してしまう。殴られながらニヤニヤと笑うのだ。そうすると相手は気味悪く思ってさっさとどこかに行ってしまう。
 私は笑う準備をした。しかし男は殴らなかった。殴らないどころか「大丈夫すか」と言って手を伸ばしてきた。
 その意外な行動に心底おどろいてしまい、私はとっさに彼の目を見た。男の目は特に何を語るでもない目だった。私は何も言えないまま彼の手を借りて立ち上がった。彼はそれを見届けると「っス」と言って立ち去った。私はそれを見送っていた。
 何が起こった?
 私は私の存在が致命的なバグである事をその瞬間に理解した。私は他人にぶつかるーぶつかり、非難がましい目で睨まれる事でしか自身の存在を確認できなかったのではないか?つまりぶつからない限り私は透明で、誰からも見えない幽霊の様な存在だったのでは?土砂の一滴、路傍の石ですら無かったのでは?
 私は自分の存在が次第に小さくなっていく感覚に捉われた。いや、実際に私は小さくなっている!!私の肉体は縮み、スーツは制服へと変貌していった。私は……私はあの女学生になっている!!
 動揺して棒立ちになる私に見知らぬ男がぶつかっていった。私は飛ばされてよろめく。後ろから、前から男がぶつかる。
 私は……!!
 私は急いで通路の端に寄った。どうなってしまったのだ?
 通路の反対側に私が立っていた。いや、かつて私だった肉体が立っている!!その男はニヤニヤと笑うと見を翻して人混みの中に消えて行った。
 私は私の役割を理解した。
 そして次のぶつかりおじさんを待つことにした。

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