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矢倉岳に独りで登った。次は友達を作って誘いたい。統合失調症と思い出作り。

今日は静岡県と神奈川県の境にある矢倉岳やぐらだけという山に登った。簡単な山だと本に書いてあったので選んだ。いつもならば、統合失調症者にアウトドアを勧める会会長として、文章を考えながら山に登るのだが、今日は全然、統合失調症とか福祉のことなどや小説のことなどを考えずに登った。鼻歌を歌いながら登っていたと思う。山で楽な道を歩くときに自然と出てくる歌が、『となりのトトロ』の「さんぽ」だということに気づいた。「あるこう、あるこう、私は元気」四十代のおっさんが、山道でこんな歌を歌って独りで歩いているのは気持ち悪いだろうか?でも誰も見てないからOKなどと私は思って歌って歩く。私は統合失調症の既往があって、以前は、山を歩くときは幻聴と話しながら歩いていた。厳密には幻聴ではなくて、頭の中の誰かと頭の中で話していることが多かった。

歩きやすい道だった

しかし、今日は違った。
頭の中に誰もいないのだ。
そして、孤独を感じるわけでもなかった。
今日登った矢倉岳は初めての山だった。車で有料道路を使って行った。これは普段私がしないことである。一年に一回か二回、日本アルプスなど三千メートル級の山を登るのを目標としているのだが、そのための練習は専ら家から車で十五分の近場の標高五百メートルくらいの山に登る。しかし、今回は少し遠出した。車で片道二時間くらいかかったと思う。しかし、登山自体は簡単だった。むしろ車の運転のほうが疲れた。

山頂で湯を沸かしカップラーメンを食べるのが楽しみ


山頂からは富士山と相模湾が見えた

統合失調症の方たちにアウトドア、とくに登山を勧める文章を私は書いているが、私の症状が軽くなっていくにしたがって、その使命感も薄らいで来る。というのも、自分が苦しんでいるからこそ、その中の歓びを伝えることに生きがいを感じるのだが、自分がもう苦しんでないと登山中に統合失調症云々を考えるのは興が醒めてしまう気がする。せっかく楽しい登山の時に病気のことを考えるのはやはり面白くない。しかし、このように私の心境が変わってくること自体、統合失調症で苦しんでいる方に自然に親しむ体験を勧める根拠にもなるだろう。
私は最近、「小説家になろう」というサイトでウェブ小説を連載している。そちらに夢中になっていて登山のほうが疎かになる。そして、結果として仕事以外の時間はパソコンに向かって小説ばかりを書いている毎日となる。はたしてこれは豊かな人生だろうか?と小説を書く生活をしながら思う。小説は面白い。しかし、小説ばかりを書く生活はあとから振り返って豊かな思い出となるだろうか、と思った。そして、昨日、山の本を見て、矢倉岳の存在を知り、今日登りに行ったわけだ。独りで登ったが、その景色は思い出に残ると思う。私は統合失調症になってから、独りで行動することに慣れきってしまったため、独りの登山も寂しいとは感じない。しかし、友達を誘ったら楽しいだろうと思った。私は無理して友達を誘おうとは思わない。友達と登山が楽しめることが自然に出来るようになるのを待とうと思う。統合失調症はゆっくり治すのが肝心だ。急に自分の理想をカタチにしようとしても、良い結果にならないことが多い。私は小学生の頃は友達が多く、誰とでも楽しく遊べた少年だったから、また、そのうち、友達とみんなでワイワイと山登りなどができるようになるだろう。そう信じているから、今は独りでも寂しくないのだろう。
統合失調症を患っている方に言いたいのだけれども、この病気は急に治るということはないと思う。だから、治るまでの長い期間の生き方を自分なりに考えなければならない。それはあとから思い出として豊かなものが残るようにした方がいい。だから、私はアウトドアを勧める。素晴らしい景色が思い出の中にあれば、それは素晴らしい人生だったとあとから思えるだろうからだ。

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